第0章 — 帰るつもりだった
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第0章 — 帰るつもりだった
今日は、厚みのあるのが出てくれないだろうか。
土曜の朝、コンビニで弁当と飲み水を二本、かごへ入れた。冷蔵棚の前で足を止め、プリンも一つ。ふたに「かため」と書いてある。隣には柔らかそうなのもあったが、手に取った方をレジへ持っていった。
車へ戻ったところでスマートフォンが鳴った。上司からだ。月曜の打合せは十時から、という確認だった。
『承知しました。資料は共有済みのものを持っていきます』
そこまで打って送る。すぐにまた連絡が来ないか気になって、しばらく画面を見ていたが、続きは来なかった。追加で何か頼まれたら困る。今日はもう、長靴まで積んでしまっている。
携帯を助手席へ置き、弁当の袋を保冷バッグへ入れた。帰ったら今日の分を量って、道具を洗う。夕飯はそのあとで考えればいい。
駐車場を出て山へ向かう。信号が減って、ようやくいつもの道に入った。最後の曲がりを過ぎると、窓越しに川の音が聞こえてくる。
いつもの空き地に車を止め、携帯と鍵をズボンのポケットへ入れた。長靴に履き替え、荷台からスコップとパン皿を出す。縁に段のついた黒い皿は、使い込んで底の艶がなくなっていた。今日も頼む、と指で砂を払い、マイナスドライバーも皿へ入れた。
川へ下りると、先に来ていた釣り人がいた。会釈を返し、釣り場から離れた浅瀬へ回る。あの大岩のそばだ。前に出た辺りから、まず試してみよう。
最初の一皿は、何も出なかった。
パン皿に残った細かな砂へ水を回し、傾きを変えてもう一度見る。やっぱりない。最後の砂を流すと、黒い皿の底だけになった。
「こっちは駄目か」
先月は、この岩のそばで出た。だから今日も、と期待して掘ったのだが、そう都合よくはいかない。見渡したところで、金のある場所に印がついているわけでもなかった。
皿を持ったまま、つい同じ所を掘りたくなる。もう少し深く取れば出るのかもしれない。そうやって一か所へ時間を使い、結局何も出なかった日もある。
まだ来たばかりだ。一度外してみよう。
川の曲がりと、対岸から張り出した大岩。頭に入っている目印をたどりながら、少し上へ歩く。以前より砂利がたまっている所も、逆に岩が出ている所もある。前に来た時はどんな形だったか、思い浮かべながら目の前の川と見比べた。
昔の図面を持って澪と歩いた時は、今は水のない場所に川が流れている様子を想像した。紙の上の線を目の前の景色に重ねてみて、昔はここが川だったのか、と二人で立ち止まった。
今は足元を見よう。
大岩の下流側へ回ると、むき出しの岩盤に細い割れ目があった。砂が詰まっている。ここはどうだろう。浅い所へしゃがみ、マイナスドライバーの先で砂を少しずつほじくり、緩んだ分を皿へ移した。
水の中で土をほぐす。皿を揺すり、大きな石を外す。軽い砂を少しずつ落としていくと、底に残るものが減ってきた。ここまで洗って、ようやく黒い細粒が寄っているのが分かる。
皿の端に、水を薄く回した。
黒い砂の脇に、細かな黄色が残った。水を回すと、離れていたものも底の低い方へ寄ってくる。
「お、出た」
もう一度水を回す。砂が先に動き、薄い金が底へ残る。細かいのばかりだが、出る場所に当たったらしい。なら、次もこの割れ目を追ってみよう。
皿へ顔を寄せた。細かなものに交じって、少し厚みのある粒も見える。こういうのが入ると、持ち帰る量が違ってくる。指先についた砂を落とし、濡れた指の腹で金をまとめて拾った。
水を入れた小瓶へ移してから、一歩横の砂も試した。今度は出ない。ならば、と元の割れ目へ戻り、ドライバーで少し奥の砂をほじくり出す。最後まで洗うと、今度も細かな金が寄った。さっきより、まとまって見える。
思わず小瓶と皿を並べて眺めた。よし。今日はこの辺りだ。
広く掘るより、いま出た所をもう少し追ってみたい。皿を抱え直し、次の砂へ手を伸ばした。
何皿か洗ったところで腹が減り、一度車へ戻った。
弁当を食べ終えてプリンのふたを剥がしていると、川から上がってきた釣り人が手を上げた。ここで何度か会ったことがある人だ。
「先に帰るよ」
「お疲れさまです」
釣り人が竿をしまう音を聞きながら、プリンへスプーンを入れる。やっぱり固い。俺はもう少し柔らかい方が好きなんだけど、買う時には澪が選んでいた方へ手が伸びる。
今日は出たよ。
言いかけた言葉を、プリンと一緒に飲み込んだ。小瓶を傾けると、細かな金が底の隅へたまった。厚みのあるものが、その上に交じっている。今日は悪くない。何グラムあるかは、帰って乾かしてからだ。澪なら、まず瓶を振らずに見せてと言っただろう。
車のドアを閉めようとして、まだ取っていない割れ目を思い出した。
時間はある。帰れば道具を洗って終わりだが、今ならあそこを試せる。澪には見せられなくても、俺は見たい。あそこからも砂金が出るだろうか。
あと一皿。出なくても、それで終わりにしよう。
川へ戻り、気になっていた砂を洗った。細かくなった残りを慎重に寄せる。最後に現れた粒が気になって、皿を目の近くまで持ち上げた。
「……これ、いいな」
今日いちばん大きい。薄い点ではなく、少し厚みがある。皿を傾けてもすぐに見失わず、目で追えた。
もう一皿、と一瞬考えて、やめた。せっかく気分よく終われるのだ。粒を小瓶へ移してふたを閉め、ポケットへ入れた。家の秤に載せるのが楽しみだった。
パン皿をすすぎ、ドライバーを皿へ戻してからスコップと重ねて持つ。長くしゃがんだ膝を伸ばしてから、岸へ向かった。
川上で、石のぶつかる音がした。
顔を上げると、曲がりの向こうから濁った水と木の根が一緒に出てきた。さっきまで見えていた石が隠れ、手前の砂利まで茶色に呑まれていく。
まずい。
皿とスコップを放した。車の方ではなく、すぐそばの高い岸へ走る。あと少し上がれば、草の生えた斜面に手が届く。
踏み込んだ砂利が、足の下でずれた。
立て直すより早く、横から流れてきた枝がすねを打った。片足が浮く。手を突き出したが、つかめたのは岸の土を少しだけだった。指の間を抜け、目の前から斜面が消えた。
「っ、あ――」
口へ泥水が入った。顔を上げようにも、どちらが上か分からない。身体が何かへぶつかり、息が一気に漏れる。もう一度吸おうとして、水を飲んだ。
やめろ。待ってくれ。
膝が石に当たった。身体が回り、短い間だけ空が見えた。あそこだ。手を伸ばしても指先は水をかくばかりで、すぐに茶色の中へ引き戻される。
吐きたい。息をしたい。せめて顔だけでも。
脚に絡んだものを外そうとして、硬いものが頭の横へぶつかった。
そこで、何も見えなくなった。
*
息ができない。
身体を起こした途端、咳き込んだ。口から水がこぼれる。吸おうとするとまた咳が出て、うまく空気が入らない。突いた手の下で石が滑った。
まだ川の中だった。
嫌だ。もう水の中は嫌だ。
草のある方へ手を伸ばし、膝を引きずった。足首を流れが押すたび、喉が勝手に詰まる。さっきの枝がまた来る気がして、後ろを確かめる余裕もなかった。
両膝が水から出た。這ったままもう少し進み、草へ尻を落とす。短く吸って、吐く。それだけを何度も繰り返した。
口の中がじゃりじゃりする。唇についた砂を払い、横へ吐き出すと、また咳が出た。涙で目がぼやけていた。袖で拭こうとして、濡れた布を押し当てるだけになった。
しばらく、そこで動けなかった。
目の前の川には、透明な水が流れていた。水の下に石が見える。枝も、木の根も来ない。流されてくる物がないか何度も確かめてから、ようやく膝を抱えた。
「……助かった?」
声を出した途端にまた咳き込んだが、今度は、あとから息が入ってきた。
生きている。
よかった。本当に、よかった。
まだ手が震えていた。濡れた膝へ押しつける。その膝を見て、遅れて身体のあちこちが気になり始めた。あれだけぶつかったのだ。どこか折れているんじゃないか。
足首を動かす。膝も曲がる。手で頭を触ってみたが、血はつかなかった。すねに枝が当たった感触は覚えているのに、そこも腫れてはいない。服の下をのぞいても、大きな傷は見つからなかった。
何だったんだ、あれは。
岸にある岩には見覚えがない。草の斜面を見上げても、車を止めた道は見えなかった。だいぶ流されたのだろうか。なら、上流へ戻れば――。
川へ目をやっただけで、さっき口へ入った泥水を思い出した。駄目だ。戻るより先に、助けを呼ばないと。
ズボンのポケットへ手を入れた。
空だった。
携帯は反対側か。そちらも探り、上着のポケットまで順に確かめる。指に触れるのは布ばかりで、いつもの角張った感触はどこにもなかった。
車の鍵もない。
さっきしまった小瓶まで、なくなっていた。
「……全部かよ」
流されたんだ。あの勢いなら、どこで落としたかなんて分かりようがない。それでも、もう一度ポケットへ手を差し込んだ。携帯だけでもあれば誰かへ連絡できる。地図も見られる。何より、一人でここから出なくて済む。
手を抜いたところで、指が目に入った。
短い。
両手を並べてみる。いや、こんな手だったか。濡れて白くなってはいるが、問題はそこではない。指も、手のひらも小さい。袖口から出た手首が妙に細かった。
血の気が引くような感じがした。寒いせいだろうか。立てば少しはましになるかもしれない。
草へ手をつき、腰を上げた。
立ったはずなのに、視線が低い。
まだ膝が曲がっているのかと思い、伸ばしてみた。変わらない。地面がやけに近い。見下ろした脚まで短かった。
動けなくなった。
携帯を落とした。鍵も落とした。そこまでは分かる。だが、何で俺の手までこんなふうになっている。
車を探すには、まず人に道を聞くしかない。その人へ何と言えばいいのか考えかけ、もう一度、手を見た。
このままにはできない。顔はどうなっている。
流れから離れた岩の陰に、浅い水たまりがあった。表面はほとんど動いていない。あそこなら顔が映るかもしれない。そばへしゃがみ、恐る恐るのぞき込んだ。
子どもがいた。
思わず顔を引いた。水の下にいるわけではない。映っているだけだ。そんなことは分かる。分かるのに、もう一度近づくまでに時間がかかった。
頬が丸い。顎が小さい。髪は濡れて額へ張りつき、大きく開いた目がこちらを見ていた。
「誰だよ……」
唇が同じように動いた。
頬へ指を当てる。水の中の子どもも、頬を触る。目を閉じて開いても、よそを向いて戻っても、そこにいるのは同じ顔だった。
知らない顔ではなかった。
見なくなってから、ずいぶん経っているだけだ。
小学校へ入った年の写真に、この顔があった。大きすぎるランドセルを背負って、門の前で母親を待っていた、あの時の俺だ。
まだ、一年生だった頃。
七歳くらいの、俺だ。
しゃがんだまま、膝へ手を置いた。顔だけなら水面の映り方のせいにできるかもしれない。でも、この手も脚も、映っている顔に合う大きさだ。
「俺、三十四だぞ」
確かめるつもりで言った声まで、いつもより高かった。
昨日は会社にいた。上司と月曜の話をした。今朝だって俺が車を運転した。店へ寄って、財布を出して、弁当を買って。それを、さっき食べたばかりだ。
それなのに、この顔だ。
戻ったのか。子どもの頃に。
思わず周りを見回した。こんな川は知らない。小学生の俺が一人で来ていた場所でもない。何年か前へ戻ったのなら、どうして今日の続きで、こんな所にいる。
分からない。考えても、ひとつもつながらなかった。
水たまりの縁へ座り込んだ。さっきまで助かったと思っていたのに、その「助かった」さえ、どういう意味なのか分からなくなる。
もう一度のぞいたら、元の顔に戻っていてくれないか。
目を閉じ、しばらく待ってから水面へ顔を寄せた。子どもは、まだそこにいた。今にも泣きそうな目をしている。俺がそんな顔をしているんだ。唇を噛むと、水の中の子どもも同じようにした。
寒い。
濡れた袖を握っても、水がにじむばかりだった。このまま座っていたら、暗くなってしまう。今が何時かも分からないのに、一人で夜までここにいるのは嫌だった。
誰でもいい。人に会いたい。
小さくなった膝に手をつき、立ち上がった。
第1章 — ついていくしかない
歩くなら、岸沿いだ。川の先へ目を向けた。木の間へ入ったら、さっき目を覚ました場所にさえ戻れなくなりそうだ。人が通れる所まで出て、助けを呼ぶ。それだけなら、今の俺にもできるはずだ。
一歩踏み出すと、濡れたズボンが膝に張りついた。思っていたより足が前へ出ない。石をまたぐたびに足元を確かめた。こんな調子で山を歩くのは嫌だ。川沿いに家の一軒でもあってくれればいい。
浅瀬の脇を二、三歩進んで、足が止まった。さっきまで足を浸していた辺りの川底が黒い。水が揺れても、その形は崩れない。泥ならはい上がった時に濁りそうなのに、縁が妙にくっきりしている。
近くに落ちていた枝を拾い、岸から黒い所を押す。硬い。泥ではなさそうだ。枝を脇へ置き、片手を岸の石についてしゃがんだ。水へ指を入れ、尖った縁は避けて平らな所をそっとなぞる。砂のざらつきがなく、指の腹がつるりと滑った。
黒曜石か? 砂金を採りに行った川で、小さな欠片を拾ったことはある。でも、足元一面に続いているのは初めて見た。
端を確かめると、黒い層は小石の丸みに沿って薄く覆いかぶさっていた。その中に、細い緑の葉が半分埋まっている。水に出た先だけが、流れに揺れていた。
黒曜石なら、溶岩が固まったものだろ。葉っぱまで巻き込んで固まったのに、焼けもしないのか。普通の岩が出ているだけではなさそうだ。俺が倒れていた所に、なんでこんなものが。
指を水から抜き、濡れた手をズボンへ押し当てた。気にはなる。でも、正体を考えてここに座り続けても仕方がない。今は人を探す方が先だ。枝を拾い直して立ち上がった。
顔を上げると、人の声がした。
川が曲がる向こうを見つめた。もう一度聞こえる。聞き違いじゃない。木の陰から細長い舟が出てきて、人影が三つ見えた。いた。人がいる。
「すみません! 助けてください!」
三人のうち一人が俺を向き、手を振り返してくれた。気づいてもらえた。枝を持っていない方の腕を、大きく振った。
「ツネイ・デア!」
「川で流されたんです! ここ、どこですか!」
返ってきた声は、今度は少し長かった。風に紛れたのか。耳へ手を当ててみせると、舟から同じ声が返ってきた。今度は聞こえる。それなのに、一言も分からない。
「日本語、分かりますか。にほんご」
ゆっくり言っても、相手の顔は変わらなかった。何語だ。英語ならせめて、どこかに知った単語がありそうなのに。人を呼べば説明できるつもりだった。ここへ来て、声の大きさ以外は何も伝わっていない。
舟が近づくにつれ、三人の姿が見えてきた。先頭には、髪を後ろで結んだ女の子が座っていた。小学生くらいだろうか。後ろの二人は大人の男だ。一人が長い竿を川底へ突き、舟の向きを変えている。舟底には、幅の広いスコップのような鉄の道具が積んであった。
三人とも、見慣れない格好をしていた。女の子はくすんだ色のスカートで、男たちは丈の長い上着を帯で締めている。映画で見る昔の服か、どこかの民族衣装みたいだ。普段からこういう格好なのか。言葉も分からないし、この人たちはどこの人なんだ。
先頭の女の子が俺の後ろを見て、竿を持つ男へ何か言った。男も黒い川底へ顔を向ける。舟の動きが遅くなった。
通り過ぎないでくれ。そう言おうとして、竿を持っていない方の男が、俺の手元を見ていることに気づいた。枝だ。棒を握ったまま大声を出していたら、近づきたくないかもしれない。
腰を曲げて枝を置き、両手を開いて見せた。何もしない。頼むから、そのくらいは分かってほしい。
男は一度頷いた。舟が浅い岸へ寄ると、先に降りてきた。女の子は立ちかけたが、竿の男に何か言われ、板へ座り直した。
近づいてきて手を伸ばされ、思わず半歩下がった。男も止まる。何も持っていない手を開いたまま、俺の顔を見ていた。
「……舟に、乗ればいいんですか」
男は舟を指し、胸を指してから、もう一度俺へ手を差し出した。一緒に来い、ということだろうか。すぐにはつかめずにいると、その人は手を伸ばしたまま待ってくれた。
竿の男は舟に残り、岸から離れないよう支えていた。女の子が布を取り出し、膝へ広げている。俺に使わせてくれるのだろうか。
舟の縁までは一歩で届きそうだった。だが、間にある濡れた石へ足を乗せるのが怖い。また水の中へ落ちたらと思うと、足が出なかった。差し出された手を、もう一度見た。
「……お願いします」
男の手をつかんだ。石へ片足を乗せると、男はもう一方の手も俺の肘に添えてくれた。俺も空いた方の手で舟の縁をつかみ、息を詰めて次の足を上げる。
「サル・ツコーキー。」
石に乗せた方の足が滑った。
膝が曲がったところで、男に腕を支えられた。舟の縁をつかむ手にも力を込める。落ちるな。舟へ出した足が底に届き、縁に腹をこすりながら、どうにか中へ身体を移した。
「うわ……すみません」
落ちなかった。そう分かってから、両手が震え始めた。舟底へ座り込んだ俺を、男が岸から覗く。頷いてみせると、その人も乗り込み、板の上へ座り直すのを手伝ってくれた。
今度は、女の子から乾いた布が差し出された。両手で受け取り、顔に押し当てる。目を閉じたら、ひどくほっとした。
「ありがとうございます」
布から顔を上げて礼を言った。女の子は俺を見てから、彼女の頬を指で擦ってみせた。まだ汚れているのか。教えられた辺りを布で拭いた。
俺を支えた男は、もう一度岸へ降りていた。鉄の道具を黒い層の端へ差し入れ、取れた小さな欠片を布に包む。あれも持っていくのか。俺と何か関係があるんだろうか。聞き方が浮かばないうちに男が戻り、舟が岸を離れた。どこへ運ばれていくのかは知らない。それでも、あそこへ戻りたいとは思わなかった。
舟を降りると、人家の近くにある小屋へ通された。腰掛けに座った途端、膝が勝手に震えた。さっきまで歩けていたのに、もう立ちたくない。
小屋にいた年配の女の人が、俺の肩へ毛布を掛けてくれた。続けて、木の椀が手渡される。
「ビツ・イドゥ・ローナー。・ボキンス。」
年配の女の人が、椀を口へ運ぶ真似をした。頷いて一口飲む。水だ。もう一口、と続けるうちに半分ほどなくなった。俺が飲み終えると、その人は外へ出ていった。舟にいた女の子は、入口のそばで竿を持っていた男と話している。
とりあえず、座っていられる。毛布を引き寄せると、濡れた上着が首に触れた。布をつまんで肌から離す。
俺が朝着ていたシャツは、こんなにごわごわしていなかった。襟もボタンもなく、首元の切れ込みを紐で結んである。
誰の服だ、これ。
ズボンも、腰を布の紐で締める形になっている。携帯を探した時はポケットしか見ていなかった。今、落ち着いて見れば分かる。日本で着ていた服じゃない。
足元にあるのも、ゴムの長靴ではなかった。足首まで覆う茶色い革の靴で、甲に紐が通っている。濡れた表面に皺が寄り、縫い目の所だけ色が濃くなっていた。
大きさまで、この身体に合っている。袖も裾も、ほとんど余らない。大人の俺の服を、そのまま着ているわけじゃない。
誰かが着替えさせたのか。
そうなら、どこかで誰かに助けられているはずだ。着替えさせてもらった覚えなんてない。俺が知らないうちに、何があった。
泥水の中で、頭の横へ何かがぶつかった。あの後に救急車の音は聞いていない。病院にいた記憶もない。気がついたらここで、顔も手も小さくなっていた。
元の体は、どうなった。
毛布の下で胸を押さえた。鼓動はある。手にも胸にも、触れている感覚がある。ちゃんと俺の身体なのに。何でこんなに違うんだ。
俺だけ子どもに戻ったのか。それとも、時間まで戻ったのか。でも、小学生の頃にこんな服を着た覚えはない。言葉の通じない国へ流された、という方がまだ考えやすい。それなら、何でこんな身体になっている。
毛布を握りしめた。ここがどこで、何が起きたのか。せめて、どちらかだけでも分かればいいのに。考えるほど、覚えていることと目の前にある物が合わなくなった。
今は、生きてここに座っている。その先を考えようとすると、川で息ができなかった時のことばかり思い出した。
入口に影が差し、顔を上げた。白髪の交じった男が、舟で俺を支えてくれた男と入ってくる。男は腰をかがめ、俺と目を合わせてから短く話しかけた。
「レア・イドゥ・ムア・ポール?」
白髪交じりの男は戸口の外を示し、川上を指した。それから俺を見る。来た場所を聞いているのか。それとも、誰か一緒にいたのかという質問だろうか。
「川で、流されて。気づいたら、あそこにいました」
川を指して答えた。男は頷いたが、もう一度同じ言葉を繰り返す。違う。答えになっていないんだ。大人だった俺が、何を聞かれたかも分からずに座っている。
「すみません。分からないんです」
首を振った。男の声がゆっくりになる。聞こえてはいる、と言いたかった。何度繰り返されても、音が意味に変わってくれることはなかった。
舟の男が話に入ると、男は質問をやめて外へ向かった。その背中を見送りながら、ますます落ち着かなくなった。これでどうなる。誰かを頼らないと困るのに、その人の名前すら分からない。
戸の向こうでは、舟で黒い欠片を拾った男が、布の包みを別の若い男へ渡していた。受け取った男は包みを確かめ、村の奥へ続く道を急いでいった。
俺のことも話しに行ったんだろうか。悪いことをしたわけではない。それでも、説明できないまま話が進むのは怖かった。
腰を浮かせると、さっきの年配の女の人が戻ってきた。畳んだ服を抱えている。その後ろから、別の人が湯気の出る椀を運んできた。
「イーノ。・イッノ・イドゥ・ロール。」
服を差し出されても、すぐには受け取れなかった。何も答えていないのに、いいんだろうか。年配の女の人は俺の濡れた袖をつまみ、乾いた服を膝へ置いてくれた。何か答えるまで待つつもりはないらしい。
二人が戸口から離れるのを待って、毛布の陰で着替えた。借りた服の袖は少し長い。ああ、これくらいなら分かる。乾いた布が背中に触れると、脱いだ濡れた上着を着直す気にはなれなかった。
脱いだ服をどうするか迷っていると、年配の女の人が受け取り、軒下へ掛けてくれた。革の靴もその下に並ぶ。どれも見覚えのない物だけど、川で目を覚ました時から身に着けていた。捨てていいとは思えなかった。
椀には、根菜らしいものが柔らかく煮てあった。ひと口すすり、匙を止める。腹が減っていたんだな。飲み込んで初めて気づいた。礼を言う前に、もう一口すくってしまった。
暗くなっても、小屋の戸は開いていた。人が通るたびに外を見てしまう。もう何度か顔を見た男が、戸口の腰掛けへ座った。俺と目が合うと、奥に用意された敷物を指す。
寝ていい、ということらしい。だが、横になっていいのか迷った。今日のように泊めてもらえるのは、いつまでだろう。ここがどこかも、家へ連絡する方法も、まだ分からない。日本語の通じる人が来てくれないかと、戸口を見た。
空の椀を持って立ち、外へ返しに行こうとした。戸口の男が手を出し、俺から椀を受け取る。ついていこうとすると、男はもう一度奥の敷物を指した。
「ツキーフ・マウ。」
敷物に腰を下ろした。開いた戸から出るだけなら、できる。でも、今ここを出て、どこへ行く。道も分からないまま、もう一度暗い川沿いを歩く気にはなれなかった。
横になっても、しばらく外の声を聞いていた。俺のことを話しているのかもしれない。男が見ているのも、逃げないようにするためかもしれない。そう考え続けていたはずなのに、途中から声を聞き分けるのが面倒になった。
頬に触れる敷物は硬かった。水音は遠く、毛布の中の足は温まっていた。起きていなければ、と思うたびに目が閉じる。
次に開けた時は、もう朝だった。
*
朝は、舟で竿を持っていた男が迎えに来た。布をくれた女の子もいる。女の子は胸を指したあと俺を指し、最後に舟着き場へ手を向ける。一緒に行こう、と言っているように見えた。
「アイ・リク・ゾー・リドゥ・ムー。」
また移動するのか。戸口で足が止まると、女の子も待ってくれた。この子も来てくれるなら、まだいい。知らない相手へ一人で渡されるよりは。借りた服の袖を折り、後を追った。
革の靴を履いていると、年配の女の人が干してあった上着とズボンを持ってきた。昨日、川岸で目を覚ました時に着ていた服だ。まだ湿った袖口を内側へ畳み、布で包んで俺へ渡してくれた。
服の包みを抱え、舟着き場へ向かった。乗り込む時に両手を空けたくて、女の子へ預ける。彼女は俺の服を、持ってきた小さな荷袋の上に置いた。俺も舟の板へ腰を下ろした。
着いた先には、昨日よりずっと多くの家があった。舟を降りて門へ向かうと、剣を下げた男が待っていた。舟の男と短く話したあと、俺たちを近くの建物へ案内してくれる。女の子は俺の隣を歩いていた。男二人を見失わないよう、俺も歩調を合わせた。
舟の男は入口で待っていた。女の子は俺と一緒に中へ入り、部屋にいた痩せた男に椅子を勧められた。俺が座ると、その人も向かいに座った。
痩せた男が、机の横にある浅い器へ手を伸ばした。何か短くつぶやくと、手の向こうで水が指先の高さまで跳ねた。俺は器を見続けた。男が手を引いたあとも、水面には小さな波が広がっていた。
今、水が手の方へ上がらなかったか。すくったのかもしれないが、腕に隠れて、指が水面に触れたかどうかは見えなかった。男は両手をこすり合わせ、脇の布で拭くと、俺へ向き直った。
「ジグ・リー・ムア・パンボ。」
男が俺の手へ触れようとした。反射的に腕を引く。何をするんだ。昨日から、どこへ行くかも何をされるかも、人の顔を見て決めるしかない。
男は追ってこなかった。代わりに、左の手首へ右手の指を二本当てて見せた。少し待ち、今度は胸を押さえてゆっくり息をする。
脈か。診てもらうのかもしれない。
横を見ると、布をくれた女の子が隣の椅子にいた。膝から手を上げ、今度は俺から差し出す。男は俺の手首を取り、じっと待った。痛くはない。続いて俺の胸を指し、深く息を吸ってみせる。真似をすると、そのあと目と腕も指で示され、順番に診てもらった。
男が俺の手を放し、水の椀を差し出してくれた。受け取りながら、顔を見上げた。
嫌だと引けば、止まってくれた。それだけで、この人にもう少し話を聞いてほしくなった。
「聞きたいことが、あるんですけど」
男は返事を待ってくれた。何から伝えればいいだろう。口を開いてから、少し考えた。
第2章 — 名前で呼ばれる
診察は終わったのかと思い、袖を下ろした。診てくれた男が、水の椀と、パンの載った小皿を並べる。食べていいのか。手を伸ばしかけると、男は俺の手の甲を指した。
手を出すと、診察の時のように手首をつかまれはしなかった。男は俺の手の甲へ、掌をそっと重ねた。脈を見ていた時とは違う。顔を見上げると、空いた方の手で椀を指している。今度は、物の名前を教えてくれるらしい。
「ビツ・イドゥ・ローナー。・ビツ・イドゥ・プーボ。」
水。次は、食べ物。口を開くより先に、何を示されたかが分かった。昨日も水を渡された時、似た音を聞いた気がする。あの時は、ただ長い言葉の途中に埋まっていたのに。
男が椀と皿の位置を入れ替え、同じ音を繰り返した。俺は水を指した。それから、椀をさらに別の場所へ置いてみる。さっきまで左にあったから覚えただけなら、これで迷うはずだ。
迷わなかった。ローナーと聞くと、机の端へ移した椀へ目がいく。飲みたいなら、この音で頼めばいいのか。忘れないように頭の中で繰り返していなくても、ちゃんと分かる。いつ覚えたんだ、これ。
「ボキンス・ローナー。・イーノ・プーボ。」
男が飲む真似をしたので、椀を持ち上げた。食べる方も、パンを一口かじるとすぐ分かった。言葉って、こんなに簡単に覚えられたか。分からないけど、今は助かる。
男が俺の手から掌を離し、少し長く話し始めた。もうほとんど分からない。それでも、水の音だけは拾えた。椀へ目を落とし、おそるおそる声に出してみる。
「ローナー。」
隣の女の子が水を注ぎ足してくれた。通じた。椀を両手で握ったまま、思わず笑ってしまった。水をもらえたことより、欲しい物を一つ言えたことがうれしかった。
診てくれた男は椀を脇へ寄せ、胸に手を当てて名乗った。
「ナデル。」
ナデル。それが名前なんだな。俺も胸へ手を当てると、男は口を閉じて待ってくれた。
「ナオト」
ナデルが、俺の口元を見た。
「ナウォト?」
惜しい。そこまで聞こえているなら、もう少しだ。ナデルに口の動きが見えるよう、顔を上げた。
「ナ・オ・ト」
ナデルも口を動かし、真ん中の音を言い直した。
「ナオト。」
顔を上げて、大きく頷いた。ナデルも笑ってくれた。この高い声でも、俺の名前を聞き取ってもらえた。身体のことは何も説明できていないのに、それだけでうれしい。ナデル。この名前は忘れないでおこう。
続いて、隣の女の子が胸を指した。
「リリア。」
リリア。やっと呼べる。昨日、舟の上で布をくれた時には、何と呼べばいいか分からなかった。名前が分かっただけで、あの時の礼まで言いやすくなった。
「リリアさん。昨日は、助かりました」
呼びかけると、リリアは胸へ手を当てて頷いた。お礼の意味まで伝わったかは分からない。もう一度、頭を下げた。
門で会った男も、短く名乗った。
「ガラン。」
三人の顔を順に見た。名前があるのは当たり前だ。でも、もう「すみません」と呼ぶしかない相手じゃない。肩の力が少し抜けた。俺も名字や仕事、話しておきたいことは山ほどある。次は何を聞いてくれるんだろう。ナデルへ身を乗り出した。
ナデルが紙に屋根のある四角を描いた。家だ。ようやく、どこから来たか話せるかもしれない。
「ビツ・イドゥ・ア・ポール。・ムア・ポール?」
「ニホン」
ナデルが手を止めた。俺は家の絵を指してから、胸へ指を戻した。ナデルが俺の口元を見つめ、聞き返す。
「ニホン?」
音は伝わった。でも、知っている場所なのかは分からない。頷いて返すと、ナデルが窓を開けた。今朝通った川が見える。リリアも窓へ近づき、その水面を指した。
「ビツ・キガー・イドゥ・レシュナ。」
レシュナ。今、リリアが指した川のことだな。ナデルが棚から別の紙を出し、机へ広げた。枝分かれした線がある。リリアは窓の外を指したあと、紙の線が曲がっている所へ指を置いて、もう一度レシュナと言った。今朝、舟で下ってきた川の名前らしい。
日本はどこだ。地図なら何か分かるかと覗き込んだが、文字は読めず、川の周りに散らばる印にも覚えがない。指を置こうとして、やめた。適当な場所を示したら、そこから来たと受け取られてしまう。
澪なら、何か分かっただろうか。
そう考えてから、そんなことを思っても仕方がないと気づいた。五年前、病気で亡くなっている。困ると今でも、まず澪の顔が浮かぶ。土曜日に買ったプリンは一つだけだった。金が出たと話しても返事は来ない。それにはもう慣れたつもりだった。
帰りたい部屋に澪はいない。それでも、あの部屋も、月曜の仕事も、残してくるつもりはなかった。
ナデルが家の絵を指先で叩いた。俺は顔を上げ、首を振った。さっき名前を伝えた時みたいにはいかない。言い直す音さえ出てこない。膝へ手を戻すと、ナデルも紙から指を離した。
この図に家を示すのは無理だ。知らない川の周りの地図一枚で、どこにも帰れないと決まったわけではない。そう考えてみても、身を乗り出した時の勢いは戻らなかった。
ガランが机の端へ包みを置いた。布が開き、黒い欠片が現れる。昨日、舟の男が川底から取っていた物だ。ガランは欠片を小皿へ移した。
黒い面を見た途端、口の中がじゃりっとした気がした。息が吸えなかった時の感じまで戻ってきて、唾を飲み込む。今は椅子に座っているのに。あの川底を思い出したくなくて、両手を膝の上で握った。
ナデルが別の台を運んできた。細い針と、目盛りらしい刻みが付いている。秤みたいにも見えるが、何を測る物か分からない。ナデルの目が黒い欠片と俺の間を行き来した。
俺を調べるのか。机から少し身を引いた。
「何をするんですか」
ナデルは俺の引いた腕を見て、伸ばしかけた手を止めた。ガランが皿を持って近づいてくる。俺は思わず、二人へ掌を向けた。
「待って。まだ、近づけないで」
ガランの足が止まった。ナデルがガランへ何か言うと、ガランは皿を持って一歩下がった。
息を吐き、掌を下ろした。触られる前に止まってもらえた。もう少し離れて見ていたい。机から椅子を引き、針の付いた器具へ目を戻した。
ナデルが机の上に器具を据え、ガランはその隣へ欠片の皿を置いた。針は動かなかった。
次に、ガランが皿を窓際の別の机へ運ぶ。黒い欠片が離れてから、ナデルは器具だけを俺の前へ移した。台の手前の机を指されたので、そこへ手を乗せてみる。今度も針は動かない。
何もないなら、これで終わりにしてほしい。そう思ったところで、ガランが窓際の皿を持ち上げた。ナデルは俺と目を合わせてから、机にある俺の手と、ガランの持つ皿を順に指す。
今度は、俺の手へ欠片を近づけたいのか。
あの黒い物のそばで目を覚ましただけだ。たまたまそこにいただけで済んでほしい。何も起きるなと思いながら、ゆっくり手を前へ出した。
ガランが欠片の皿を少しずつ近づけた。俺の指が届くより手前で、器具の針が横へずれた。
同時に、俺の手首の内側が押された。誰も触っていないのに。肘を引き、空いた手の掌を二人へ向けた。
「待って。いま、何か……」
「ツノッフ。・ルーグ・イッノ・アレイ。」
ガランが皿を遠ざけると、針が戻った。手首を押される感じも消えた。そこを反対の手で擦る。痛くはない。指も動く。でも、触って確かめていないと落ち着かない。
何だったんだ、今のは。手首から目を上げると、ガランが皿に布をかぶせていた。聞きたいことがあるのに。口を開きかけた俺へ、ナデルが掌を向けた。
「レイノ。」
ナデルが俺の手首を指した。腕を差し出すと、さっき押された手首の内側へそっと触れ、指を曲げるよう促してくる。針の方は、もういいのか。顔を覗くと、ナデルは俺の胸元へ目を向けていた。
先に俺の具合を確かめたいのか。言いかけたことを飲み込んだ。今の身体について何か分かりそうだったのに。あの欠片にはもう近づくなということなのか、後でまた調べるのか。それだけでも聞ければいいんだけど。
膝の上で手を握り、開いてみた。あの感じは戻らない。ナデルが水の椀を俺の方へ寄せてくれたので、一口飲んだ。さっき覚えた水の名前も、今は口にする気になれなかった。
しばらくして、ナデルが浅い器を引き寄せた。診察の前に手を洗っていた器だ。また洗うのかと思って見ていたら、水面が盛り上がり、ナデルの指の間へ細く伸びた。
今度は見間違えていない。
「待って。それ、どうやってるんですか」
ナデルが手を引くと、水は器へ落ちた。俺は水面を指したあと、その上まで指を持ち上げてみせた。もう一度。どうやったのか見せてほしい。ナデルは器を机の真ん中へ置き直し、さっきと同じ短い音を口にした。
水がまた上がった。指二本分くらいの高さで先が崩れ、器の中へ戻っていく。俺がそっと手を近づけると、ナデルは頷いた。水に触れた俺の指先が濡れる。棒も、透明な管もない。上がってくる水を横から指で遮ると、そこで流れが崩れた。指を引けば、またつながる。
ナデルがかざしていた手を下ろすと、水は元の高さに戻った。器は机に置いたままだ。どこも動かしていない。
手品、なのか。
器の縁を見た。机の下も覗いたが、管やコードらしい物は見当たらない。だからって、仕掛けがないと決まったわけじゃない。俺が見つけられないだけかもしれない。
仕組みが分からない。それだけなのに、器へもう一度手を出すのが怖くなった。
椅子から腰を浮かせた。部屋の外へ出て、少し頭を冷やしたかった。立ち上がろうとすると、膝に力が入らない。
「ちょっと、俺……」
続きが出なかった。身体は小さくなっていて、服も知らない物で、今度は水までおかしい。どれか一つの理由も分からないまま、次が来る。椅子の縁を握り直すと、指が痛かった。
「ナオト。」
横を見ると、リリアが椅子の脇から俺の顔を覗き込んでいた。呼んでくれたのは、この子だった。返事をしようとしてもうまくいかない。リリアが待ってくれている間に、椅子へ座り直した。まだ震える手を膝へ置く。まず、息をしよう。三人は部屋にいる。俺だけになったわけではない。
ガランが、内側に厚い布を張った箱を持ってきた。黒い欠片を布ごと入れ、机へ木札を置く。俺にも何か札をつけるのか。肘を身体へ寄せて、ガランの手元を見た。
ガランが細い道具で木札に何かを書き始めた。名前か、川で見つかった場所か。それとも針が動いたことか。横から覗いても、俺には文字の区切りさえ分からない。
ガランが札を持ち上げ、一か所を指した。
「ナオト。」
頷いた。そこが俺の名前なのか。ガランの指が離れると、ほかの線との境目がまた分からなくなった。読めるようになりたいけど、水の言葉を覚えた時みたいにはいかない。
ガランが箱の蓋を閉めた。黒い欠片が見えなくなったことに気を取られていると、もう一度名前を呼ばれた。顔を上げる。ガランが、リリアの隣の空いた場所を指していた。
立っていいのか。リリアが少し横へずれてくれたので、椅子を降りた。引いたままにしていた腕を身体の脇へ下ろす。今度はナデルもガランも止めなかった。
ガランは閉じた箱を窓際の机へ運んだ。俺はリリアのそばに立ち、開いた戸から隣室を覗いた。敷物と毛布がある。その脇には、干してもらった服の包みも置かれていた。ああ、まだここにいていいんだ。そう分かったら、膝から力が抜けそうになった。
「ありがとうございます」
誰へ言えばいいか迷い、三人へ頭を下げた。顔を上げるとリリアと目が合った。ようやく少し笑えた。
リリアが帰り支度を始めたので、寝床へ向かいかけた足を止めた。リリアが肩へ掛けようとした荷袋を指し、両手を差し出す。何もしないで、また食べさせてもらうのは落ち着かない。
「これくらいなら、運べます」
ナデルが俺の差し出した手を見て、短い音を教えてくれた。
「ペクフ。」
「ペクフ。」
繰り返しながら荷袋に手を添えた。でも、リリアは荷袋を抱え直し、顎で俺の寝床を示した。ナデルもそちらを指している。まだ寝ていろ、ということらしい。引っ込めた両手を背中へ回す。俺と同じくらいの子にまで心配されている。そんなに、具合が悪そうに見えるのか。
リリアは、外で待っていた舟の男と川の方へ帰っていった。窓から見送っていると、ナデルが隣室の俺の寝床へ食事を運んできた。さっきより多い。湯気を見た途端に腹が鳴り、気まずさより先に匙を取ってしまった。
食べ終わると眠くなった。これだけ寝て、また寝るのか。少し目を閉じるだけのつもりが、次に起きた時には窓の外が暗かった。今度は腹が減って目が覚めたらしい。腹を押さえ、起き上がった。
翌日も、その次の日も、食事は来た。布を替えに来る人や、椀を下げる人の顔を覚える。声をかけられても、名前以外は聞き落とすことが多い。教わったはずの食べ物の音がすぐに出ず、パンを指して待ってもらったこともあった。
ナデルは長い話をせず、物を手にした時や、これから動く時に短い音を繰り返した。
「サル。」
入口でナデルに手招きされるたび、同じ音を聞いた。そのうち、手を上げられる前に顔を向けられるようになった。待つ方の音は、椀を運ぶ人の前へ出かけて止められ、ようやく使いどころが分かった。まだ、言われたことを丸ごと分かるわけではない。
数日たつと、昼に起きていられる時間が増えた。食事を運んでくれた人に、空の椀を持ち上げて見せる。
「ローナー。」
その人は頷き、水差しを取った。俺も頷いて、注いでもらった水を飲む。今日は、もう横になりたいとは思わない。椀を返し、廊下の突き当たりの開いた戸へ目を向けた。あの向こうを、少し歩いてみたい。
第3章 — 川から出たもの
リリアが帰ると聞いて、椅子から立ち上がった。見舞いに来てくれたばかりなのに、もう戸口で世話役と話している。この数日、俺は食べて寝て、聞き取れた音を繰り返していただけだ。今日はもう身体も重くない。またここで、次に誰かが来るのを待つのは嫌だった。
「俺も。行っていい?」
俺は胸を指してから、リリアを指し、彼女の後ろへ立った。首を傾げられたので、戸口まで歩いて戻り、もう一度やってみる。荷物を持ちたいんじゃない。一緒に外へ出たいんだ。
「レイノ。」
待つ。その音は分かる。足を止めると、リリアは世話役との話に戻った。世話役が俺の顔を確かめて頷き、上着を手に取った。この人も一緒に来てくれるらしい。ようやくリリアに手招きされた。よかった。連れていってもらえる。借りた上着を取りに引き返した。
連れていかれたのは、川沿いの荷置き場だった。舟から男二人が荷を下ろし、岸に立つ若い男が受け取っている。リリアは、舟で竿を持っていた男へ駆け寄った。男が彼女の頭へ手を置き、世話役と話す。この人がリリアの父親だと分かったのは、もう少し言葉を覚えてからだった。
父親に木盆を示されると、リリアは壁際へ座った。俺も隣へ行く。散歩に来たつもりだったけど、先に手伝いがあるらしい。
待っていると、脇の木盆に小さな木栓が見えた。リリアが一つずつ摘まみ、二つの山へ分けている。これなら手伝えそうだ。俺は盆の端を指した。
「ペクフ。」
リリアは割れた栓と、割れのない栓を並べて見せ、栓の山から少しだけ俺の前へ寄せた。分けてみると、一つずつ確かめてから残りも渡してくれる。よし、合っていた。次の一個を取る手が早くなる。顔を上げた時には、リリアは隣で空の袋を畳んでいた。栓の方は俺に任せてくれたらしい。
分け終えた栓をリリアが袋へ移すと、盆は空になった。もうないのかと袋を覗いたが、彼女は首を振った。手を引っ込め、膝に残った木屑を払う。ほんの少しだけど、俺にも手伝えることがあった。さっきより、ここに座っていやすい。
リリアが畳んだ袋を棚へ戻している間、俺は空の盆を眺めていた。縁があり、底に穴はない。抱えて少し傾けると、残っていた木屑が片側へ寄った。
これ、水を入れられないだろうか。
もう一度持ち直した。いつものパン皿より浅いが、小石を除ければ砂くらいは洗えそうだ。顔を上げると、岸の岩の間を水が通っている。わざわざ探しに来た川ではない。それでも、見ているうちに、砂を一度すくってみたくなった。
こっちの川にも金があるのかは知らない。いつものやり方が通用するかも、試さなければ分からない。でも、手順なら覚えている。人の顔を見て、何を言われたのか考えてばかりだったけど、これは俺がやりたい。
リリアが戻ってくる。俺は盆を両手で示した。そのまま持っていかず、彼女の顔を見る。何かをすくう動きのあと、盆を小さく揺すってみせた。
「ローナー。」
川を指し、足元の砂を指し、もう一度洗う動きをする。金を探したい、は言えない。リリアは盆と川を交互に見たあと、父親へ声をかけた。父親は川辺と俺たちを見比べ、最後に世話役へ頷いた。リリアは盆を俺へ渡し、ついてくるよう顎で示した。
借りていいらしい。俺は急いで立ち、盆を抱えた。木栓を仕分けた時より、ずっと落ち着かなかった。川へ出てみたいと頼んだだけなのに、本当に砂を洗える所まで来てしまった。
舟を着ける場所から少し離れると、岸際に平たい岩盤が出ていた。何度も人が通ったような細い道が、水際まで続いている。ここで水を汲むのかもしれない。石の段の先だけが浅く濡れていた。リリアは乾いた足場を指し、俺がしゃがむと隣へ腰を下ろした。岸の上には世話役が立っていた。あまり遠くへ行くな、と言われたのかもしれない。
少し先に、よさそうな割れ目がある。だが腕を伸ばしても届かず、腰を浮かせないと無理だった。そこまで行くのはやめて、足元を見直す。岩盤のくぼみには石が重なり、その間に砂利が詰まっていた。ここなら手が届く。
俺が砂を掘る真似をすると、リリアは荷置き場へ戻り、短い柄のスコップを持ってきてくれた。鉄の先が少し曲がっているが、使えそうだ。足元の石を一つずつ持ち上げ、邪魔にならない岸へ置いた。
石の下へスコップを差し込み、詰まった砂利をほぐす。岩盤まで薄くなった所をこそげ、砂と小石を一緒に盆へ移した。持ち上げて重さを確かめ、もう少し足す。洗うには、このくらいでいい。
最初に水を入れた時は、思わず縁を強く握った。浅い。普段のパン皿と同じつもりで動かせば、全部流してしまいそうだ。手を広げて支え、少しだけ揺する。砂が崩れ、濁った水の下へ沈んだ。
大きな石を除き、軽い砂を縁から落とす。半分ほど減ったところで、勢いよく水を逃がしかけて慌てて戻した。危ない。出ないのと、流してしまったのとでは話が違う。もう少しゆっくりでいい。
リリアが覗き込む。見せようと盆を傾け、慌てて水平に戻した。見栄を張っている場合じゃない。まず最後まで残そう。底がほとんど見えるまで砂を減らすと、細かな粒が薄く広がった。
砂金は出なかった。端に隠れていないか、水を回して一周見る。やっぱりない。俺は盆から顔を離し、息を吐いた。まあ、最初の一皿から出るとは限らない。
「出ないな。次、こっちを見たい」
盆の中をリリアに見せ、すぐ隣のくぼみを指す。彼女は砂を取る場所を覗き、頷いた。二皿目は少し扱いやすかった。水の動きを見ながら縁を上下させるうち、どのくらい傾ければ砂だけが落ちるか、手が覚え始めていた。
最後に残る黒い細粒は、一皿目より多い。悪くない。そこに黄色が交じっていてほしい。濁りが消えるのを待ち、底へ顔を近づける。光った物があったので追ったが、薄い欠片が軽く流れただけだった。
出ないか。これで何も出なかったら、リリアには何をしていたように見えるだろう。砂で遊びたかった子ども。まあ、それでも間違いではない。だが、待ってもらった分くらい、何か見せたかった。
荷置き場から男が呼び、リリアが立ちかけた。俺は慌てて盆を持ち上げたが、まだ金は出ていない。彼女は男へ返事をし、盆へ砂を入れて洗う真似をした。それから俺へ指を一本立てる。
「ヤン・ロア。」
俺も指を一本返した。あと一皿だけだ。遠くの場所を探しに行く時間はない。二皿目を取った所へ目を戻し、同じ流れが当たる隣のくぼみを選んだ。
最後は、細く突き出た岩の脇を見た。そこに挟まった平たい石を外し、下に詰まった砂利へスコップを入れる。盆へ移す量は、さっきと同じくらいで止めた。最後だからと欲張って、洗う時にこぼしたら意味がない。
今度は水を切る加減に迷わなかった。丸い小石をつまんで除き、底に沈んだ粒を残す。黒い細粒が寄ったところで、脇に違う色が見えた。薄い黄色が、いくつも底に残っている。盆を揺する手を止めた。
「……出た」
声が小さすぎて、リリアには聞こえなかったらしい。水をもう一度だけ動かした。周りの細粒が先にずれ、黄色いものが底の低い方へ集まる。さっきの薄い欠片とは違った。
ある。こっちの川にも、金がある。量としてはまだ少ないのに、頬が勝手に緩んだ。俺の知っている採り方で出たんだ。盆を膝の上で支え、リリアの袖を軽く引いた。
「見て。ここ。これだよ」
リリアがしゃがみ直し、俺の指した先へ顔を寄せた。落ちてきた髪を耳へ掛け、じっと底を見ている。見えたか。砂とは違う黄色が寄っているのを、見てほしい。リリアが盆から顔を上げ、俺を見た。
笑ってしまった。これ、たぶん金だよ。ちゃんと出たよ。そう言いたいのに、何一つ伝えられない。日本で採った時だって嬉しかったけど、こんなに誰かの反応を待ったのは久しぶりだ。リリアも口の端を上げた。彼女が人差し指の爪を寄せ、黄色の集まっている所を示す。そう、そこだ。
早く瓶へ移したくて、腰へ手をやりかけた。あの瓶はもうないんだった。手を戻しても、さっきまでの嬉しさは消えなかった。代わりに盆をリリアへ寄せると、彼女も膝を寄せて覗き込んできた。もう少し、このまま見ていたい。
リリアが岸の上を見た。まだ手伝いが残っている。俺はスコップをリリアへ渡し、盆を持って立ち上がった。次の砂を取りたいが、あと一皿と頷いたばかりだ。せっかく連れてきてもらったのに、約束まで忘れるわけにはいかなかった。
荷置き場へ戻り、壁際の腰掛けに座った。盆の水が揺れるたび、底へ目を落とす。黄色が片側へ寄っていた。持ち帰る入れ物を借りたい。さすがに、この盆を抱えたまま寺院まで歩くわけにはいかない。
通りかかった男が何か言い、盆を覗いた。俺は粒を指してみたが、男は少し首を傾げた。それから、近くで石を積んでいた子どもたちにも同じ声を掛け、荷を運ぶ方へ戻っていった。
遊んでいるように見えるのだろう。細かな黄色いものを見せられただけでは、何を大事そうにしているんだ、と思うのかもしれない。俺は呼び止めず、盆を膝へ戻した。
俺には、ずっと見ていられるくらいの物だった。つい先ほどまで、こっちでも金が出るのかさえ分からなかった。それが今、膝の上にある。細かいことはまだ何も確かめていないが、あの色と残り方を見てしまうと、次も探さずにはいられなかった。
荷を運ぶ声が減り、リリアが戻ってきた。盆を持ち上げる。返す前に、水を捨てないといけない。もちろん、粒まで流すつもりはない。入れ物がないか周りを見ていると、リリアが胸を指した。
「ライ・ナーン。」
続けて、リリアは空の手で盆を揺する真似をした。俺も顔を上げる。もしかして、やってみたいのか。リリアは川を指し、俺の返事を待っている。
「やる? もちろん、いいよ」
立ちかけて、困った。先にこの金を移さないと、新しい砂を入れられない。俺は底を指し、小さな物をつまんでしまう動きを繰り返した。リリアは棚を探し、蓋の付いた小さな陶器を持ってくる。口は細いが、指は入る。これなら使えそうだ。
川で内側をすすぎ、少しだけ水を入れた。濡れた指の腹へ細かな金をつけ、容器の水で落とす。何度か繰り返し、盆に取り残しがないか確かめた。容器の底にも、ちゃんと黄色が見えた。
リリアにも見せてから、蓋を閉めた。俺が持っていていいのかな。容器を手に迷っていると、彼女が俺の上着のポケットを指した。頷き、落ちない深さまで押し込む。帰ってから、また開けよう。
リリアがスコップを取った。同じ岸で、俺がさっき試した所の隣にある石をどけ、その下の砂利を掘り出す。何度も砂利を足して盆をいっぱいにしそうになったので、縁に手を添え、途中で止めた。
「そのくらい。それで十分」
言葉より先に、手つきの方が通じた。リリアが少し砂を戻し、俺の顔を見る。すぐに頷いた。今までは、俺の方がこうして相手の返事を待っていたんだ。合っているか分からないまま待つのは、落ち着かない。
大きな石を除くところまでは早かった。だが、リリアは盆を大きく傾けた。砂が一度に縁へ滑り、俺は慌てて手を伸ばした。
「あ、待って。もっとゆっくり」
盆を受け取り、少しだけ砂を落として見せた。リリアへ返すと、さっきより慎重に傾け始めたが、今度は水ばかりが出て砂が減らない。口を出しかけてやめた。俺だって、握っている盆を横から勝手に動かされたら、やりにくい。
リリアが顔を上げるのを待って、俺も空の手を傾けてみせた。もう少し。そこで止める。リリアは盆へ目を戻し、何度か繰り返したあと、俺へ底を向けた。細かい砂が、薄く残っている。
砂金は出なかった。横から覗き込んでも、どこにも見当たらない。リリアは肩を落とし、それから俺の上着のポケットを見た。さっきの容器をしまった所だ。
「毎回は出ないんだよ」
伝わったかは分からない。でも、笑いながら首を振ると、リリアも笑った。リリアは隣の石をどけ、スコップでその下の砂利を盆へ移し始めた。
二回目は、盆を受け取らずに済んだ。リリアは途中で少し手を止め、俺を見る。頷き返すと、また盆を揺すり始めた。こういうことなら、何を聞かれているのか分かる。言葉を覚えるより先に、砂の洗い方を教えることになるとは思わなかった。
底に残った細粒へ、二人で顔を寄せた。リリアが指を出す。黒い砂の端に、細かな黄色が交じっていた。俺が採ったものより薄いが、水を回すと同じように寄る。
「そう、それ!」
俺の方が大きな声を出してしまった。リリアは盆を持ったままこちらを見て、肩を揺らした。笑うと盆まで揺れる。危ない、と俺が縁を支えると、彼女は口を結んだが、まだ少し笑っていた。
容器を出し、蓋を開ける。今度はリリアが金を移した。入ったか確かめようと二人で覗き込み、顔が近すぎて、俺が少し引く。底へ寄せると、さっきより黄色い範囲が広がっていた。
短い時間に数皿洗っただけだ。持ち帰る量としては、まだ少ない。それでも、出る場所が見つかって、リリアも採れた。次はもう少し奥まで試せる。蓋を閉める頃には、明日のことを考えていた。
盆とスコップをすすぎ、元の荷置き場へ返した。リリアが持ち主と話し、盆を指してから川へ目を向ける。男が頷いている。次も借りられるのかもしれない。俺がリリアを見ると、彼女は空の手で、もう一度洗う真似をした。
「ヌロコー?」
まだ知らない音だった。俺が首を傾げると、リリアは一度寝る仕草をして、それから川を指した。明日、ということだろうか。
「行きたい。また、一緒に」
リリアを指してから、俺の胸を指した。彼女が頷き、小容器を入れた俺のポケットを軽く叩く。俺も上から手を当てた。一人で採って、あとから人に見せるのとは少し違う。明日また出たら、その場でリリアの顔を見られる。
帰り道、あの岩の横をもう一度見た。今日は手を出さなかった溝が、隣に一本ある。次はそこから試したい。先を行くリリアに気づき、その後を追った。
第4章 — 小さな輪
これで何か作れないだろうか。
最初にリリアと川砂を洗ってから、十日ほどたっていた。陶器の容器を傾け、底へ寄った黄色い粒を眺める。今日の分を足しても、まだほんの少しだ。ふたを閉めようとして、もう一度開けた。何回見れば気が済むんだろう。
リリアは隣で盆を洗っていた。粒を探す時はあんなに顔を近づけるのに、片付けとなると早い。俺が容器をしまう頃には、スコップも盆も持って立ち上がっている。
手を伸ばすと、リリアからはスコップだけ渡された。彼女も俺と大して背が違わないのに、盆を抱えると足元が見えなくならないのだろうか。横から覗くと、少し斜めにして腰へ当てていた。なるほど。次に俺が持つ時も、それでやってみよう。
川で布をもらって、名前を覚えて、今は隣で同じ砂を洗っている。何度も礼は言った。でも、ありがとうだけじゃなくて、俺からも何かしたかった。
小容器をポケットの奥へ入れた。これを何かの形にできたら、リリアにも渡せる。二人で採った物だ。俺だけの物だと思って使うわけにはいかないけど、一緒に考えることはできるはずだ。
先を歩くリリアが振り返った。慌てて追いつく。足元を見ずに容器のことばかり考えていたら、転んでこぼしてしまう。
川へ出られる日は、思っていたほど多くなかった。
ある日はリリアが来ても、盆を持って立つより先に首を振られた。
「モッノ・ヌベイ(今日は無理)。」
今日は駄目。その言い方は、もう覚えていた。戸口の向こうに荷を積んだ舟が見える。持ち上げかけた盆を戻した。明日は、と聞きたいけど、これを片付けるのが先だろうな。
別の日には雨が降り、晴れた翌日も川の水が高かった。いつもの足場が見えない。リリアの顔を見る前に、俺は盆を抱え直して戻った。一人でこっそり行くほど、あの水を忘れてはいない。
行ける時は、家の手伝いを終えたリリアと一時間ほど。まだ明るく、二人とも疲れていなければ、もう少し。川へ下りる前には、荷場にいるリリアの父親へ声をかける。長くても二時間くらいで切り上げた。時計がないので正確には分からないが、夕飯に遅れるほど続けはしなかった。
盆は一つだ。リリアが洗う番には俺が砂を用意し、交代すると彼女が近くの溝を覗く。二人でやれば倍採れる、というほど簡単でもない。どちらがやっても何も出ない日は、盆を見せ合って終わった。
出る時は、最後に細かな金がいくつも寄った。帰り際、容器の底へまとめたものを見て、昨日より多いか、厚みのあるものが交じっているかを確かめる。粉のようなのがたくさん出た日より、少し大きいのが交じった日の方が、かさがあることもあった。数を数えても、採れた量は分からない。
初めは俺ばかりが場所を選んでいたが、そのうちリリアも、あそこはどうだと指すようになった。舟で通った時に見ているのか、俺がまだ知らない岩の裏へも迷わず行く。砂を洗うことなら教えられるつもりだったけど、川のことは俺より詳しい。
住む所も変わった。ナデルに連れられて寺院の寝場所へ移り、診察のために寝ている暮らしは終わった。食事の時には椀を取りに行き、服を洗う場所も教わった。帰る家の話になると、まだ首を振るしかなかったが、今夜どこで寝るかを心配することはなくなった。
七つ、と指を出して年を教えたら、リリアも同じ数だけ立てた。やっぱり、それくらいか。俺の本当の歳を知らない彼女には、よその国から来た同い年の子に見えているらしい。
言葉は、川で覚えることが多かった。
リリアが濡れた袖を引っ張って何か言う。俺も上着の袖をつまみ、その音を繰り返した。冷たい、だろうか。腕を擦ってみると、彼女は首を振り、袖を絞ってみせた。水が落ちる。ああ、濡れている。その音だったのか。
次の日にはもう言葉が出てこなくなって、袖をつまんでリリアの顔を見た。彼女は昨日と同じ音を言い、今度は乾いた襟を指す。
一つ聞いたつもりが、二つになった。
物の名前だけでは足りなかった。盆を返してほしくて、その名前だけを繰り返しても、リリアは頷くだけで、洗う手を止めない。間違ってはいないな。それは盆だ。
両手を出すと、リリアはようやく笑った。盆を俺の手へ戻しながら、短く言う。
「ケンボ・イッノ(貸して)。」
口の動きを見て真似をした。その日の夕飯では、遠くの匙を取ってもらえた。翌日には布にも使えた。同じことを何度も教わっているのに、川の外で通じると、また嬉しくなった。
ひと月ほどたった頃、リリアが片付けを始めた時にも、教わった言い方を使ってみた。
「ヤン・ロア(もう一回)。」
指も一本立てた。彼女は盆を抱えたまま、傾きかけた日へ目をやる。
「ヌロコー(明日)。」
「ヤンツ(一回)。」
リリアは振り返りもせず、岸を上がっていった。聞こえてない、はずはないよな。置かれたスコップを拾い、少し遅れて後を追う。言葉が通じたら何でも頼める、と思っていたわけじゃないけど。もう少しくらい迷ってくれてもよかった。
帰る道で呼ばれると、結局、すぐに追いついた。
短い言い方が増えても、食卓の話にはなかなか入れなかった。誰かが言って、みんなが笑う。リリアがこちらを見て言い直してくれる頃には、もう次の話が始まっている。笑って頷くと、分かったことにされそうで、俺はパンへ目を落とした。
しばらくすると、リリアが膝の上で両手を傾けた。盆で砂を洗う真似だ。それから、親指と人差し指を少し開いてみせる。今日、厚みのある金が出た時も、そうしていた。
俺も同じくらい指を開いた。リリアが頷く。あれはよかった。食卓の話は追えなくても、今日の川のことなら二人で分かる。
最初に盆を借りた日から三か月近くたつ頃には、容器を傾けると、底の隅に金が重なってたまるようになっていた。
いつもの岸で採取を終えたあと、俺は小容器の中身を浅い皿へ移した。細かな金を端へ寄せる。これなら、細い輪くらいにはできそうだ。以前採ったものを量った時の見た目と比べるしかないが、最初の頃とは明らかに違う。家の秤があれば、今すぐ載せたかった。
リリアが覗き込み、容器の底を軽く叩いた。残っていた粒が水と一緒に落ちる。皿を地面へ置き、右手の親指と人差し指で輪を作ってみせた。そこへ左手の指を通す。
「ア・キンズ(指輪)?」
それだ。頷き、今度はリリアを指した。彼女は胸を指して聞き返す。
「ポー・リー(私に)?」
「レイス。・ポー・リリア。・オーセー(作る。リリアに。いい)?」
覚えた言い方を、一つずつ出した。礼をしたい、と続けようとすると日本語が出そうになる。皿を二人の間へ置き、俺の胸とリリアを順に指した。この粒を使っていいか。もう一度指で輪を作ると、彼女は皿を見てから、その輪へ人差し指を差し込み、笑った。欲しい、ということなら、たぶん伝わっている。
よし。作ろう。
そう決めてから、家に置いてきた道具を思い出した。小さな溶解皿とバーナー。どちらも、ここにはない。
前に一度だけ、俺が採った砂金を溶かしたことがあった。丸くまとまるのが面白くて、冷えた塊を金槌で叩くところまでやった。何かを作ったわけではない。平たくなったものを、また容器へしまっただけだ。
あの時、指輪まで作っておけばよかった。
ない道具を数えていても仕方がない。金を溶かすなら千度以上だ。木炭と、風を送るふいご。それを用意できれば、ここでも試せる。バーナーがなかった頃にも、金を溶かしていた人はいたんだから。
まず、使える器を探した。
食事の皿を裏返してみたものの、すぐに棚へ戻した。硬そうな焼き物なら何でもいい、とはいかない。三か月分を入れてから割れられては困る。
リリアには、地面に器と火を描いて見せた。金属を溶かす、と言いたかったのだが、料理をすると思われたらしい。彼女が鍋を指したので首を振り、借りた金属の匙を火の絵へ近づける。
匙を折り曲げる真似までしていると、ナデルが通りかかった。絵を見てもらい、溶かす、という言い方を教わった。丈夫な器も欲しい。その音も、何度か真似した。
「レクノ。・パイア。・ツノコンズ・ゴウク(溶かす。火。丈夫な器)。」
言い直してようやく、リリアが鍋を指すのをやめた。
翌日、ナデルの買い物についていき、町の道具屋へ寄った。リリアにも来てもらった。昨日覚えた言い方を店の人へ伝えると、ナデルが横から説明を足してくれた。
棚の奥から出てきたのは、釉薬のかかっていない厚手の小さな器だった。金属を熱するのに使う物だそうだ。両手で受け取る。前に使った溶解皿とは形が違うが、普通の食器で試すよりずっといい。
できれば、ホウ砂も欲しかった。前に砂金を溶かした時には、少し使った覚えがある。けれど、あの粉の名前をどう聞けばいいのか分からない。白い粉、とだけ言っても、別の物を出されるだろう。
今回は、なしでやってみよう。残った砂は、できるだけ洗い落とす。何もかも家にあった通りにはできない。
器を買うと、寺院の手伝いでもらっていた小遣いはほとんどなくなった。空の袋を畳み、落とさないように器の包みを抱えた。
金槌と小さな鉄の台は寺院の物を借りられた。木炭も、使う分だけ譲ってもらう。ナデルには火の絵を何度も見せ、最後は寺院の裏へ連れていかれた。建物から離れた、土の出ている一角だ。使い終わったら片付ける、と頷いた。家で炊事の火を起こしているリリアは、俺より先に木炭の置き場所を見つけていた。
それから数日は、砂金より革を触っていた。
ふいごを作るには板と革が要る。板を切るところは大人に頼んだが、形と、空気の通る口の位置は俺が決めた。古い袋をほどき、穴のないところを探して使う。
最初に動かした時は、横の継ぎ目から風が出た。
「そこじゃないんだよ」
リリアが継ぎ目を指で押さえた。俺は板の片方を膝で支え、もう片方を手で押した。空いた手を吹き口へ近づける。今度はこっちに風が来た。
顔を上げると、リリアはまだ継ぎ目を押さえていた。
「ピア(ここ)。」
「イエツ。・ピッスツ・ピア(うん。ここを直す)。」
革を縫い直し、継ぎ目を膠で塞いだ。俺の指先はべたべただ。リリアも布で手を拭いている。乾いてから試すと、横を押さえなくても風を送れるようになっていた。
裏の土を浅く掘り、木炭を寄せる場所を作った。借りた火ばさみを脇へ置く。砂金はもう一度洗い、残った砂をできるだけ除いてから乾かした。器も乾いたものを使う。
準備の途中で、リリアの指に糸を巻かせてもらった。どの指にするか聞くと、右の中指を出す。糸へ印をつけ、ほどいて真っすぐに置いた。
この長さの棒にして、丸める。幅を欲張らなければ、足りるだろうか。
容器を開け、また閉じた。見ても増えない。でも、見ずにはいられなかった。
*
火を入れた日は、リリアと交代でふいごを動かした。家で火を起こす時と同じなのか、彼女は炭へ火が移るのを待ち、火ばさみで少しずつ寄せていく。
俺はゆっくり温めた器を、炭の間へ据えた。中にあるのは、乾かした砂金だけだ。板を押すたび、吹き口の先で炭が明るくなった。顔を近づけなくても熱い。
腕が疲れてリリアと代わり、もう一度代わった。早く見たくなるが、離れた所から覗ける分で我慢する。
黄色い粒の端が、丸くなっていた。
隣の粒とくっつく。さらに小さなものが寄って、一つになる。
「リリア。」
呼んだくせに、リリアを見る余裕がなかった。
器の底に、小さな丸い光があった。さっきまで見えていた粒の境目は、もう分からない。
リリアが俺の隣から炭の間を覗き、腕をつついてきた。頷いている。見えたんだ。俺も頷き返した。何か言えたらよかったのに、ふいごを押す手まで止まりそうだった。
リリアへ手を振り、もう風を送らなくていいと伝えた。俺が火ばさみで炭をよけ、器の中で金が固まるのを待つ。さっきまで動いていた表面が止まり、赤い光も薄れていった。
器を火ばさみで押さえ、先の丸い鉄の棒を塊の端へ当てた。少し押すと、ころりと外れる。まだ手では触れない。棒を置き、固まった金だけを火ばさみでつまんで水へ落とした。短く、シュッと音がした。
音がやみ、冷えたのを確かめてから、ようやく指でつまんだ。付いていた炭の粉を水で洗い、布の上へ置く。
もう、つまめる。
息を止めて砂粒を追わなくてもいい。親指と人差し指の間に、ひと塊の金がある。向きを変えても崩れず、そのままついてきた。
「バン(できた)。」
まだ指輪ではない。それでも、言ってしまった。
リリアが手のひらを出したので、そこへ小塊を載せた。彼女はつまんで目の近くへ持ち上げ、裏返してから俺の手へ戻してくれた。
「ペギー(重い)。」
「イエツ(うん)。」
指へ戻ってくると、俺もつまみ直した。この大きさにしては、重い。砂の中に散っていた時には分からなかった重さが、指の腹へまとまって掛かる。
布の上で転がすと、丸くなった面が黄色く光った。水越しに探していた点が、今は裏返しても、横から見ても金色だ。これだけ集めたんだな。笑ってしまってから、もう一度手に取った。
輪にする作業は、次の日から始めた。
金槌の面を確かめ、汚れを落としてから、小塊を鉄の台へ置く。柄を短く持って打つと、上が少し平らになった。ひっくり返し、また打つ。
前にやった時は、もっと楽に延びた気がする。
腕に力を入れ直してから、金槌を握る手を見た。そうだった。この手は七歳だ。前より力がないのは当たり前だった。
力任せにせず、置く向きを変えながら少しずつ延ばした。薄くなった所ばかり叩かないよう、何度も持ち上げて見る。長さが増すと、片側だけ幅が広くなった。
そこを直していたら、今度は曲がった。
何でそっちへ行くんだ。
リリアが覗くたび、まだ、と手を振った。何度目かに「川」と聞こえて、ようやく顔を上げる。あ、そっちか。いつできるか聞かれていると思っていた。リリアはスコップを持って笑っていた。
「ヌベイ、ビツ(今日はこれ)。」
「キガー・ヌロコー(明日は川)?」
「キガー・ヌロコー(明日は川)。」
約束してから、また手元へ戻った。
金は冷えたままでも延びた。何度も持ち上げて向きを直すうちに、指先まで金槌の振動が残るようになった。腕が疲れれば、その日はやめる。細長い棒になるまでに、川へも二度行った。
約束を破らずに済んだ代わりに、輪はなかなか完成しなかった。
長さを糸の印と比べた。もう少し。端ばかりを細くしないよう、太い所を選んで打つ。印へ届いたところで、金槌を置いた。
丸くする時には、木槌を使った。木の切れ端に柄をつけ、叩く面を滑らかにしておいた。丸棒へ金の棒を沿わせ、少しずつ曲げていく。両端はつなげない。模様も彫れそうにない。そこまでやる腕は、俺にはなかった。
これでいい。まず、指にはまるものを作ろう。
夕飯の前には、だいたい輪に見えるところまで来ていた。
リリアが帰ったあと、窓の明るさを頼りに輪を見た。丸くはなったが、槌の跡が重なって、光が細かく散っている。
借りた金属の匙を裏返した。傷のない滑らかな背を輪へ当て、木の芯で支えながら押しならしてみる。何度か同じ所を通ると、そこだけ光がつながった。
なるほど。削らなくても、こうすれば少しは艶が出るのか。
深い槌の跡や、薄くしすぎた所は残った。それを消そうとして、輪まで潰す気にはなれなかった。布で拭いて、手の中で回す。さっきより、金色の面がよく見えた。
道具を置いた。
*
左の中指へ、ゆっくり通した。
付け根の手前で少し引っ掛かって、そこを越えると収まった。手を下げてみる。抜けそうにはならない。
俺にも、はまった。
リリアのために作ったのに、外す前にもう一度眺めてしまった。今夜だけ。このままでも、いいだろう。
手を開く。握ってみる。
指輪だった。
容器に入れて持ち歩く粒でも、台の上の細長い金属でもない。手を動かすたび、俺の指についてくる。
窓際へ寄ったが、外はもう暗かった。
月なら、もう少し見えるかもしれない。
寝る前に裏口の段へ腰を下ろした。火はすっかり片付いている。昼間は道具を広げていた土の上に、炭で黒くなった跡だけが残っていた。
月のある方へ、左手を上げた。
手首を返すと、輪の縁に白い光が走った。もう一度、同じ向きへ傾ける。さっきより細く光って、動かすと消える。
そういうところは、同じなんだな。
日本でも、小さな粒を容器の中で転がしては、光の当たる角度を探していた。川から帰って、手を洗って、採れたものをまた見る。夕飯を食べたあとにも見る。何がそんなに面白いのかと聞かれたら、うまく説明できなかったと思う。
今も、やめる気にならなかった。
最初の日に採った分は、どこに入ったのだろう。
輪の少し細い所を見た。ここかもしれない。隣の、槌の跡が残った辺りかもしれない。溶けて一緒になったのだから、分かるわけがない。
リリアが初めて洗って、二人で顔を寄せて見た金も、この中にある。
何も出なかった日には、盆を見せ合った。雨のあとは川へ行けず、洗って伏せた盆を横目に通った。晴れていても手伝いが終わらなければ待った。川へ下りてから、彼女が来る道を何度も振り返った日もある。
濡れた袖を引っ張り、言葉を教わった。次の日には忘れて、また聞いた。
あんなふうに、一日ずつ過ごしてきた。
ナデルが水を持ち上げるところも、この三か月で何度も見た。俺が洗って渡した椀でも、場所が変わっても、同じように水が浮いた。驚いているのは、いつも俺だけだった。
知らない国へ来た。昔の時代へ戻った。そういうことなら、まだ何か調べようがあると思っていた。でも、この水や、七歳になった身体は、それだけではどうにも説明がつかない。
ここはたぶん、俺が暮らしていたのとは別の世界なんだ。
そう考えると、膝の上の手に力が入った。元の家へ続く道を、誰かに教えてもらえば済むわけじゃないのかもしれない。何度も避けてきた考えなのに、今夜は、違うと言い返せなかった。
あの水を動かす力を呼ぶなら、俺の知っている言葉では魔術だ。仕掛けを見つけようとして、ナデルの手元ばかり見ていた日もあった。
指を動かすと、輪が月明かりを返した。理由の分からないことだらけでも、これは俺が作った。砂を洗って、金を集めて、叩いて丸めた。そこは、一つずつ覚えている。
左手を膝へ下ろし、右の人差し指で輪の縁をなぞった。
来たばかりの頃は、この手を見るのが怖かった。小さくて、傷もなくて、俺の手だと思いたくなかった。目を閉じてから見直したら、戻っているんじゃないか。そう思って、何度も確かめた。
今は、その指にはまっているものがうれしかった。
「……作れたな」
声にしてから、頬が緩んだ。もう一度手を上げる。いい歳をして、と思いかけたが、ここにはそれを知っている人もいない。知っていたとしても、今夜くらいはいいだろう。
身体がこんなに変わっても、川で金を拾って、何かにしてみたくなる。できあがれば、いつまでも眺めている。
俺は、こういうことが好きだった。
裏口が開き、ナデルが顔を出した。
「ツキーフ・マウ(寝るよ)。」
分かる言葉だった。頷いて立ち上がる。
何がそんなにうれしいのか聞かれたら、手を見せるつもりだった。けれどナデルは俺が中へ入るのを待って、戸を閉めただけだった。
それでも、うれしかった。
寝床へ入ってからも、指輪は外さなかった。左手を胸の上へ出しておく。もう暗くて見えないけど、右の指先で触れると、そこにあった。
明日、リリアに見せよう。
何と言って渡そうか。ありがとうは言える。いつも、も言える。二人で、も。
そこまで考えて、布団を少し引き上げた。
まだ彼女には渡していないのに、今日はもう、いい日だった。
*
朝、目を開けて最初に見たのは、左手だった。
指輪は、ちゃんとはまっていた。
寝床に座り、外した輪を膝の布へ載せた。昨夜のままで、形は変わっていない。きれいな布で包み、指先で挟んで磨いた。
角度を変え、裏も拭く。朝の光だと細かな傷まで見えてしまう。指で触った跡が取れると、昨夜は白く見えた面に、濃い黄色が戻った。
この色だ。川で、最後まで残っていてほしかった色。小さな輪になっても、そこは変わらない。
もういいか。
布へ置いてから、もう一度だけ拭いた。
リリアが来たのは、朝食の支度が始まる頃だった。包みを持って廊下へ出る。呼び止めるより先に目が合って、リリアの視線が俺の包みへ下りた。
「バン(できた)?」
「バン(できた)。」
布を開いた。
リリアが顔を近づける。昨夜、俺が最初にはめたことを話そうとして、やめた。その説明をしていたら、渡すまでに朝食が終わりそうだ。
「ポー・リリア(リリアに)。」
彼女は俺を見てから、布の上の輪をつまんだ。右の中指へ、ゆっくり通す。
「ナイノ(きつい)?」
リリアは首を振った。手を握り、開いてみせる。
「イッノ・ピッヌ(ちょうどいい)。」
大きく息を吐いた。
よかった。昨夜はうれしくて忘れかけていたけど、俺の指に合ったって仕方がない。リリアの指にはまらないと。
「タンシュー(ありがとう)。」
先に言ったのは、俺だった。
「オークレイドゥ・ヌゼダー。・パッヒー(いつも一緒。うれしい)。」
リリアは輪をはめた手を眺めていたが、俺の言葉で顔を上げた。それから俺の右手を取り、手のひらを上へ向けさせる。金槌の柄が当たって赤くなった所を、彼女の親指がそっと撫でた。
「タンシュー(ありがとう)。」
ゆっくりだったので、聞き取れた。
頷いた。何か返したいのに、うまく口が開かない。昨夜、考えた言葉はもう全部使ってしまった。
リリアが窓へ手をかざした。輪が光る。
そう。それを、見てもらいたかった。
しばらく窓の光にかざしていたリリアは、輪を外して布へ包んだ。それから俺の方を向き、籠を抱える真似をする。
「ペクフ。・ネイス・オプ(手伝い。外す)。」
「イエツ(うん)。」
曲がったり、なくなったりするよりいい。包みがリリアの袋へ収まるまで見ていた。
隣へ並ぶと、リリアが顔を覗き込んだ。
「ヤッノ(何)?」
口元を手で擦った。
そんなに笑っていただろうか。
「マッチンズ(何も)。」
それ以上は言わず、二人で朝食へ向かった。途中で一度、何もなくなった左の中指に触れた。昨夜の輪の感触を、まだ覚えていた。
第5章 — しまう場所
輪を渡した日の夕方、ナデルに呼び止められた。
家の手伝いから戻ったリリアが、朝の包みをナデルに見せていた。俺が作ったと話しているらしい。ナデルは布から輪を取り、指先で回した。途中から窓の光へかざし始め、なかなか手を下ろさない。
薄くしすぎた所が気になるんだろうか。そこは、俺も気にしている。直すつもりで手を出しかけると、ナデルは輪をリリアへ返した。
「グキンズ・イッノ・ヌロコー(明日)。」
明日。その音は分かった。リリアが輪を示して頷いたので、これを持ってくる約束らしい。俺も頷いた。
翌朝、リリアは輪を布に包んで持ってきた。
俺も小容器を持っていた。中は空だ。もう一度振っても、何も底へ落ちてこない。あれほど気にしていた粒がなくなったのに、ポケットから外す気にはなれなかった。
ナデルの部屋には、知らない女の人がいた。机へ布を広げ、リリアが輪を置くのを待っている。
「セラ。」
リリアがその女の人を指して言った。俺も名前を繰り返す。セラの腰の袋からは、細い工具が出ていた。何かを直す人なのかもしれない。
セラは輪を手に取り、明るい方へ持ち上げた。片方の端を爪で軽く押し、表と裏を見る。
「ゾークボ?」
ナデルも輪を指し、同じ音を繰り返した。俺は口の中で真似をする。金、なのだろう。ここでの呼び方は知らなかった。
頷くと、ナデルが俺を見た。
「レア(どこで)?」
「キガー。・リドゥ・リリア(川。リリアと一緒)。」
リリアが頷き、続けて話した。覚えた音を拾っていく。砂。洗う。毎日ではない。途中で分からなくなったけど、俺たちが川でしてきたことを説明してくれているようだ。
ナデルは、すぐには頷かなかった。
セラが机の脇へ小さな箱を置いた。中には白っぽい牙のような物があり、その根元に黄色い粒が食い込んでいる。彼女は輪と、その粒を交互に指した。
「ゾークボ。・ビツ・ヌー(金。これも)。」
次にセラは、窓の向こうの川を指した。
「モッノ・イン・ダ・キガー(川にはない)。」
ある。三か月かけて集めたのだから、そこを間違えようがない。
「イン・ダ・キガー。・ロッチュ・タンボ。・ビツ(川にあった。砂を洗う。これ)。」
空の容器を出し、ふたを開けた。中身を全部輪にしてしまったことが、急に惜しくなる。粒があれば、今すぐ見せられるのに。
リリアが話に入った。彼女だって、その粒を拾ったんだ。セラへ両手を見せ、盆を傾ける仕草をする。俺と同じことをやっているのに、説明がずっと長い。ナデルが二つ、三つと聞き返し、そのたびにリリアが答えた。何を聞かれたのか、俺には追いつけなかった。
盆を持つ真似をしていた両手を下ろした。
日本にいた頃は、説明を人に代わってもらう方ではなかった。言い足したいことがあっても、今は誰かの話が終わるのを待つしかない。
ナデルが輪を布へ戻した。
思わず、輪を載せた布をリリアの方へ寄せた。ナデルもセラも、リリアまで俺を見る。
「ビツ・イドゥ・リリアドゥ(これはリリアの)。」
ちょっと強く言いすぎたか。
ナデルは輪から手を離し、頷いた。
「イエツ。・リリアドゥ(そう。リリアの)。」
取り上げるつもりじゃなかったらしい。机の下へ手を引っ込めた。礼をしたくて作っただけなのに、みんな真面目な顔で見るから、何かしてはいけないことをしたのかと思った。
リリアは輪をはめた。右の中指へ通し、俺に見えるよう手を開く。
昨日、輪を渡した時と同じ指だった。そこへ戻るだけで、息がつけた。
セラが空の容器を指した。それから胸を指し、盆を洗う動きをする。
「アイ・ロンノ・ヌー・チー(見たい)。」
顔を上げた。
採るところを見たい。それなら話せなくても、できる。
「サル・リドゥ・アツ(一緒に来る)?」
セラは頷いた。ナデルも、ようやく少し笑った。
*
セラが川へ来たのは、仕事の空いた日の午後だった。
いつもの盆を借り、リリアと岩際へ下りた。セラは岸の上へ腰を下ろしている。何か道具を使って確かめるのかと思ったけど、今日は箱も持っていなかった。
見られていると、手を動かす速さまで気になる。
最初の一皿は出なかった。次も出ない。セラを見ると、まだ同じ所に座っていた。何も言わずに待ってくれるのはありがたい。でも、それはそれで落ち着かない。
リリアが隣へしゃがみ、小声で言った。
「オークレイドゥ・カイス・ビツ(いつもこう)。」
そうだけれど。今日は、出てほしかった。
いつもと違うことをしたって、出るとは限らない。気になっていた岩の横へ移り、くぼみの石をどけて、下の砂利をスコップで掘り出した。腕を伸ばすと、袖が水へ入る。折り直そうとしている間に、リリアが俺の袖口を持ち上げてくれた。
その場所の砂を洗うと、黒い砂の脇へ細かな金が寄った。薄いものの中に、少し厚みのある粒も交じっている。
セラを呼ぶと、岸から下りてきて盆のそばに膝をついた。金の集まった所を指す。セラの視線がそこへ落ちた。盆を揺する仕草をされたので、水を動かした。
細かな黄色が、また底へまとまった。
セラは長いこと見ていた。それから、爪を盆の縁に当てて頷いた。
「テイル(同じ)。」
笑いかけて、やめた。セラはまだ真顔だった。ほかにも確かめたいことがあるのかもしれない。でも、目の前で砂から金が出た。川にあると言い張るだけで終わらなくてよかった。
通りかかった荷運びの男が、何をしているのかリリアに尋ねた。彼女が答えると、男は盆を覗き、小さな物をつまむ真似をして笑った。
「ゾークボ(金)?」
そこは聞き取れた。続きは速かったが、セラが短く言い返すと、男は両手を上げた。仕事が残っている、とでも言ったらしく、荷場へ戻っていく。
子どもの遊びにつき合っている、と思われたのかもしれない。
男を呼び止めようとは思わなかった。セラはまだ粒を見ている。それで今日は十分だ。
帰りに工房へ寄ると、セラは小さな蓋付きの箱を出した。俺が持っていた容器を受け取り、箱へ置く。その横へ紙を一枚入れてから、俺とリリアを順に指した。
「ムアードゥ。・ゴーツ・オグ・ムー(二人の)。」
セラは箱の蓋を閉じ、鍵をかけた。
「シーフ・イッノ・ピア(ここに置く)?」
容器の入った箱を見た。ここへ預ければ、落としていないかと歩くたびにポケットを探らなくて済む。
隣のリリアを見ると、彼女も頷いていた。あとでナデルとリリアの父親にも、預けた場所を知らせることになった。空いたポケットを軽く叩く。次に出たら、またここへ持ってくればいい。
帰る前に、リリアが指輪を布で包んだ。輪は預けず、いつもの袋へしまっている。その袋を持つリリアと、一緒に工房を出た。
*
その週の終わり、リリアは夕飯に来なかった。
いつもなら、家の手伝いが終わると顔を出す。俺は食べ終わった椀を前に置き、戸口へ人が来るたびに顔を上げた。
ナデルに聞くと、父親がまだ川から戻らず、リリアは家で待っているらしかった。
暗くなるまで、何の仕事があるのだろう。
次の朝、ようやく会えた。リリアは今朝、片付けの手伝いへ行ってきたそうだ。上着には白い粉がつき、片方の袖口が裂けていた。俺が裂け目に触ると、彼女は袖をまくって腕を見せてくれた。大きな傷はない。赤い擦り傷が少しあるだけだ。
「バドゥ・イッノ・パーノ(痛い)?」
「ア・キノク(少し)。」
リリアはそう言いながらパンを取った。二つ目にも手を伸ばす。俺の分もあげようとしたけど、彼女の皿にはまだ残っていた。戻した俺のパンを、リリアが指す。
「イーノ(食べて)。」
昼、ナデルと荷場へ行った。いつもの袋の山がなくなり、濡れた粉が板の隙間に詰まっていた。男たちがそれをかき集めている。もう捨てるしかないんだろうか。川の方も見たが、水はいつもと同じ高さだった。
石囲いに網がかぶせてあった。その下で、灰色の丸い背がゆっくり動いている。犬ほどもないが、犬には見えない。短い脚で板を押し、平たい口を隙間へ差し込もうとしていた。
ナデルの後ろへ半歩下がった。
ガランが来て、網の端へ板を重ねた。動いていた背が見えなくなる。俺が息を吐くと、ガランも大きく息を吐いてみせた。わざとらしくて、俺は少しだけ笑えた。
石囲いから離れた所で、セラが川側の柱を開けていた。
柱の開いた蓋から覗くと、細い線の這う板が見えた。セラが線の切れた所を金属でつなぎ直している。作業の男が柱と柱の間へ厚い板を運び、立て掛けた。セラが柱の中の板へ指を置く。厚い板の上に、薄緑の面が現れた。
リリアがその面と石囲いを指し、ゆっくり教えてくれた。昨日はこれが途切れ、あの小さな生き物が荷場へ入ったらしい。
舟を見渡すと、大きく壊れてはいないようだった。でも、地面へこぼれた粉はもう袋へ戻せない。大人たちは昨夜から、これを片付けていたのか。リリアも、帰ってこない父親を待っていた。
柱の蓋を閉めたセラが、ガランへ何か話した。ガランは柱を見てから、長く息を吐いた。俺の方は見ていない。今度は笑わせるためじゃなさそうだった。
何の話かリリアに聞くと、間を空けながら教えてくれた。
「キヘア。・モッノ・オーク・マウ(直す。今は全部は無理)。」
「レン(いつ)?」
リリアは首を振った。
柱と、工房のある道を見比べた。直せる人がそばにいても、すぐには直らないのか。そういえば日本の家の水道だって、部品を買わなければどうにもならなかった。
何が足りないのかまでは、まだ聞き取れなかった。
帰り際、リリアが盆を取りに行きかけた。俺はその袖を軽く引いた。裂けた方ではない袖だ。
「ケツノ・ヌベイ(今日は休む)。」
彼女は川を見てから、俺へ顔を戻した。
「イドゥ・ダッノ・オーセー(いいの)?」
頷いた。リリアは何度も目を擦っている。昨夜は、遅くまで起きていたのかもしれない。もう一皿と言って待たせる気にはなれなかった。
リリアは盆を元の場所へ戻した。
帰る道で、リリアの手が俺の手に触れた。顔を上げると、彼女は前を向いたままだった。握り返して、歩幅を合わせた。話さなくても、このまま一緒に帰ればいい。今日はそれが、少しありがたかった。
第6章 — 三年後の春
リリアに指輪を渡した春から、三年がたった。
「それ、あと一皿って言ってから二皿目」
盆を持ったまま顔を上げた。リリアは岩に腰を下ろし、脱いだ靴から小石を振り落としている。
「最初のは、ほとんど洗ってない」
「砂を入れて、洗って、流したよ」
「途中で全部こぼした」
「自分で?」
盆へ目を戻した。言い返せるようになったって、言い返せる材料まで増えるわけじゃない。
少しして、リリアが隣へしゃがんだ。
「それで最後ね。帰りにセラの所へ寄るから」
「分かった」
返事をしてから、わざわざリリアの口元を見ていないことに気づいた。
いつからそうなったのだろう。
最初の冬には、食卓で話の終わりを待たずに聞き返せるようになっていた。次の夏には、一人でパンを買いに行った。釣り銭を間違えたと思って店へ戻り、こちらの数え方が違っていたと分かった時は、できれば言葉が通じない頃へ少し戻りたかった。
今は、怒られている最中にも、別の言い方なら通っただろうかと考えてしまう。
習った音を頭の中で探してから並べることは、もうほとんどなかった。
盆の底に残ったものへ水を回す。細かな金が端へ寄った。最後の一皿は、さっきまでより少ない。
「さっきの所の方がよかったね」
横から覗いたリリアが言った。
「明日は、あっちの石の下も見たい」
「明日は荷が多い」
口を閉じた。そうだった。朝、聞いたばかりだ。
明後日、と言い直す前に、リリアが容器を差し出した。
使い始めた頃と同じ、小さな陶器の容器だった。蓋の縁が少し欠けている。俺が洗っていた時に落とした跡だ。リリアは今でも、欠けた縁が俺の指に当たらない向きで渡してくれる。
今日の分へ足すと、細かな金の中に、少し大きいものが二つ見えた。そこには厚みもある。数が多いだけの日より、こういうものが交じる方が楽しみだった。全体を底の隅へ寄せてから、蓋を閉めた。
いつもの岩へ片足を掛け、岸へ上がる。前は二人とも、腰を下ろして足から降りていた段だ。今は一人で上がれる。後から来るリリアを引き上げようと手を伸ばしたら、そこへ盆を載せられた。
「こっち、お願い」
両腕で受け取った。水を捨ててあっても、抱えるとまだ大きい。
こんな時には、まだ十歳なんだなと思う。
寺院の柱には背丈を測った跡が三つある。指輪を渡した春、七本の指を出して年を教えた。それから春が来るたび一本ずつ足すようになった。本当の誕生日まで説明したわけではないが、今では誰に聞かれても十歳と答えている。リリアも十歳で、背を比べると、今も少しだけ彼女の方が高い。
最初は怖かった身体の変化も、最近では、こんなに伸びたのかと思って見ていられる。
*
川へ行かない日にも、用事はあった。
食事の前に椀を並べる。小さい子たちが一つの椀を取り合い始めたら、もう一つ持ってきてそれぞれに渡す。空が曇ると、声を掛けられる前に物干しを見に行く。
どれも最初は、働いているところを見せなければと思って始めたことだった。
今は、面倒だと思う日もある。
誰かが先にやってくれたら助かるし、遊びに誘われると、椀を並べるのを忘れかける。ひと月ほど前には、平たい石を水面で跳ねさせる水切りに夢中になった。呼びに来たナデルに連れ戻され、その晩は食器を全部洗った。
次からは呼ばれる前に帰ろうと思った。次の一投なら、ほかの子より多く跳ねさせられそうだったことは、言わなかった。
大人だった頃の俺なら、こんなことをしただろうか。
そう考えることはある。でも、あの頃だって仕事を翌日へ回して川へ来ていた。七歳だった頃へ気持ちまで戻っているのか、ただここの暮らしに慣れたのか。うまく分けて考えられなかった。
澪の顔を忘れたわけではない。
声の方が、少し怪しくなっていた。
昨日も今日も聞いているリリアの声なら、戸の向こうからでもすぐ分かる。澪が俺を呼ぶ声を思い浮かべる時には、目を閉じるようになった。思い出そうとするほど、同じ短い言葉ばかりが繰り返される。
ある夜、寝る前に日本語で「今日は出たよ」と言ってみた。
隣の寝床から、まだ小さい男の子が顔を上げた。
「何て言ったの?」
「昔、住んでた所の言葉」
「もう一回」
少し迷ってから繰り返した。男の子は真似をしたけど、最初の音から違っていた。俺が笑うと、その子も笑った。
教えているうちに、最初にナデルへ名前を言った日のことを思い出した。
次の朝、同じ言葉を言ってみると、男の子はまた、何て言ったの、と聞いた。昨日のことはもう忘れたらしい。
それでよかった。忘れないでくれ、と頼むようなものではない。
*
セラの工房には、週に一度か二度通っていた。
川へ行けない日、工具を拭いたり、鉄や銅の切れ端を分けたりする。セラは術具の修理をしていない時には、留め金や蝶番も直していた。金を使う仕事を見ることは、めったにない。
言葉で頼めるようになってから、ナデルのあの水を、俺も動かせないかとセラに聞いた。魔術を見ても毎回驚くことはなくなっていたが、俺にもできると言われた時は、聞き違いかと思った。
それから、手伝いのあとに少しずつ教わるようになった。
最初は、手に何か感じることからだった。
水を入れた器の縁へ指を置いて目を閉じても、ずっと何も起きない。セラに何を感じるのか聞くと、説明はしてくれたけど、その通りにやっているつもりでも分からなかった。
水が初めて動いた時は、器を揺らしたのかと思った。
指を離して、器が揺れていないのを確かめてから、もう一度やった。同じ端へ水が寄る。俺が動かした。何度も見せてくれと頼んでいたあれを、ほんの少しだけど、俺にもできた。
その晩はリリアを探して寺院中を歩き回った。やっと見つけて、見せようとしたら、今度は何も起きない。翌日やり直して、ようやく見てもらえた。あれ以来、リリアは水を動かしてと言う前に、今日は疲れていないかと聞く。
できるのは、浅い器の水を端へ少し寄せる程度だった。川の砂を洗ってくれるほど強くはない。苦労して覚えたのに、砂金採りは結局、腕で盆を揺する方が早かった。
今日も工房へ入ると、セラはまだ机に向かっていた。
「そこに置いて。濡れてる物は、紙から離して」
「分かってる」
「昨日、誰が濡らした?」
容器を別の台へ置いた。
リリアが笑いながら、棚から俺たちの箱を下ろした。セラに鍵を開けてもらう。中には採取用の容器とは別に厚手の小袋があり、布の内側に黄色い粒がたまっていた。
指輪を作った時より、ずっと多い。
ただし、三年間、毎日増えたわけではなかった。冬は川へ入らない日が続いたし、リリアの家の手伝いが忙しい時もある。同じ所を掘ってばかりでは、初めの頃ほど出なくなった。
大雨も、何度かあった。茶色い水が岸の草まで押し寄せるのを見ると、今でも足が止まる。水の高い日は、川へ下りなかった。
何日も待って戻ると、前にあった砂利の中洲がなくなっていたり、埋まっていた岩が出ていたりする。覚えていた場所が、そのまま使えるとは限らない。リリアと岸を歩き、まず足場から確かめ直した。
洗ったはずのくぼみへ新しい砂が詰まり、また金が出たこともある。逆に、前によく出た所が、何皿試しても駄目になったこともあった。水と一緒に金も運ばれ、たまる場所が変わる。分かっていても、出るまでは落ち着かない。
増水は怖い。それでも川が落ち着く頃には、今度はどこへたまっただろうと、岸の形を見てしまう。
少しまとまった分だけ、セラに預けてきた。
最初の頃は、川で遊んでいると言われるたび、金を採っているのだと言い直していた。そう話した相手の男に、「そんな所から金が出るなら、俺も仕事をやめるよ」と笑われたこともある。
今は、毎回言い直してはいない。
セラは三年間で何度か岸へ来た。まとまった分は工房でも調べてもらい、これは金だと確かめてもらっている。ナデルにも一度、採れたものを容器へ移してもらった。この箱に何が入っているのか、知っている人はいる。
言葉が通じるようになった頃、セラには、捨てずに集めておいでと言われた。
「結界の修理にも使う物だから。まとまれば買い取れる。でも、二人の物だよ。何にするかは考えておいて」
町の金庫を預かる老人も、一度、箱を見に来た。川から出るという話には首を傾げたままだったが、少しは足しになるかもしれないから、たまったら見せてくれと言った。隣のリリアは、早く川へ行きたいらしく、借りた盆を持ち替えていた。これだけでは信じてもらえないんだな、と俺は箱の中を見た。
リリアには、少し後で聞いたことがある。
「ほかにしたいこと、ないの。川ばっかりで」
「ここにありそう、って思った所で出ると面白いよ」
それからリリアは、俺を見た。
「輪もできたし。次も、二人で何かにできるんでしょ」
その時は、何を作るかまでは決めなかった。道具を買うことにも、困った時の金にもできる。ただ見せたくて集めていたものに、使い道ができた。俺の都合でつき合わせているだけなら、と聞きかけた言葉は、言わずに済んだ。
今日の分を別の小皿で乾かすために出すと、リリアが、これまでの金が入った小袋の口をつまんだ。
「もう、私の輪よりずっと多いね」
「模様、入れてもらう?」
リリアは首を振った。右の中指に輪はない。荷場の手伝いをする間は、今も外している。
「このままでいい。せっかく合うようにしたんだから」
去年きつくなった時は、端を開いていったん棒へ戻し、太い所を金槌で少し打ち延ばした。木の芯へ巻き直し、木槌で丸さを揃える。前より少し細くなったが、リリアの指には、また合うようになった。
俺も頷いた。形はその時に直したし、今は引っ掛からずに抜き差しできる。表面にはまだ浅い槌の跡があるが、リリアはそのままがいいと言う。飾りを足すのは、彼女が欲しくなってからでよかった。
セラが手元の紙を畳んだ。
「今年も春の仕入れに行く。出るまでに、この棚を空けたい」
リリアが棚の方を見た。俺はセラの畳んだ紙を見ていた。さっきまで、大きな円の周りに何本も線が重なる図が描いてあった。
「その図も持っていくの?」
「私の師匠に見てもらう。ここの戻し方が、どうしても合わない」
セラは紙を広げ直し、円から出て、また同じ所へ戻る線を指した。何を戻すのかまでは分からない。セラに貸してもらった入門用の板には、もっと単純な図しかなかった。
「王都?」
「そう」
小袋を箱へ戻した。
王都に工房があることは、前から知っていた。セラが昔そこで働いていたことも、毎年、道具を買いに出かけることも。
去年は、戻ってきた時に何を買ってきたか聞くだけだった。
「俺も、行けないかな」
リリアの手が止まった。
二人の顔を見た。言ってしまった。まだうまい頼み方を考えていなかったけど、冗談にして引っ込めたくはない。
「見せてもらうだけじゃなくて。そこで、教わりたい」
セラは、すぐに頷かなかった。
「ここでも教えてるよ」
「うん。でも、セラが直すところばっかり見てる。俺も、こういう道具を最初から作れるようになりたい」
紙の図を指すと、セラはそれを俺の前へ少し寄せた。
「これを?」
「いつか。今すぐじゃない」
言ってから、やけに大きなことを頼んだ気がした。水を器の端へ寄せられるくらいで、何を作るつもりなんだ、俺は。
セラは図を置き、俺を見た。
「ナデルには?」
「まだ」
「先に話しておいで。行くなら、住む所も、面倒を見る人も要る。私が勝手に連れていくわけにはいかない」
断られたのではなかった。
頷くと、セラは図を畳んだ。帰り道でリリアに何を話すか、今度はちゃんと考えよう。
工房を出ると、リリアは川と逆の道へ進んだ。
リリアの隣に並んで歩いた。いつもなら何か話すのに、今日は足音ばかり聞こえる。さっきの話、どう思ったんだろう。セラの前で言えたことを、なかなかもう一度切り出せなかった。
第7章 — しまっていた金
ナデルへ話した夜は、思っていたより長くなった。
どこで暮らすのか。何を習いたいのか。セラが戻ってきた後は、誰と一緒にいるのか。
聞かれるたびに答えに詰まった。王都へ行けば工房がある。そこまでは知っている。でも、セラが帰ったあと、俺はどこで夕飯を食べるんだろう。そこまで考えていなかった。
ナデルは駄目とは言わなかった。
「師匠という人へ、先に聞いてみよう。ここから頼んでいいか、セラにも相談して」
頷いた。今までずっと世話になっていたのに、行きたいと言っただけで、もう出ていく準備を手伝ってもらえる。それでいいんだろうか。ありがたいのに、少し申し訳なかった。
翌日、その話をリリアへした。
「よかったね」
彼女はそう言って、盆を受け取った。
よかった、のかな。返事をしそびれた。二人で並んで砂を取っていると、スコップを動かしている間に、聞こうと思っていたことを言わずに済ませられてしまう。
その日も、細かな金を容器へ集めて帰った。金が出るといつも覗き込んでくるリリアに、今日は何を話せばいいか分からなかった。
*
王都へ手紙を出して一週間ほどたった朝、川へ下りる道が板で塞がれていた。
リリアはその向こうで、小さな籠を運んでいた。父親たちが大きな袋を担ぎ、後ろからついていく彼女も、わざわざ離れた倉庫まで往復している。
「また、あそこ?」
リリアに聞くと、頷き返された。町の結界が川へつながる、荷場の角だ。
「昨日の夜、切れたの。今朝は中へ入ってた」
石囲いに、見覚えのある灰色の背があった。前に見たのと同じ種類らしい。リリアの話では、今回は誰もいない時間に入ったそうだ。豆の袋を三つ破られたという。
近くで、女の人が濡れた豆を拾っていた。時々手を止め、指先の一粒を見ている。袋へ戻せる物と、捨てる物を分けているらしい。
空の桶を持ってそばへ座った。女の人が、使える豆を一握り見せてくれる。それと同じ物は彼女の籠へ、潰れた物は俺の桶へ入れることにした。リリアは積み直す荷の方へ戻っていった。
昼近くまで掛かった。
砂を運ぶつもりで借りた桶が、捨てる豆で埋まっていった。底にまだ拾える物がないか見直していると、リリアが隣へ新しい桶を置いてくれた。
セラは柱の前に座り込んでいた。外した板の裏へ、短い金色の帯が留めてある。その端が、途中で途切れていた。
「新しいのに替えるの?」
俺が聞くと、セラは帯を少し持ち上げた。
「前に替えたのがこれ。その前のを切って、使える所だけ継いだ。足りない分は、薄く延ばして長さを出した」
短い端に、継ぎ目が幾つもある。金色はきれいなままなのに、切れ口の辺りは頼りないほど薄かった。
「溶かして作り直せば?」
「作り直すよ。でも、同じ金の量で同じ長さに延ばしたら、またこの薄さになる。買い足せなくて、切れないぎりぎりまで薄くしてあるんだ。それに、こっちも直さないと」
セラは帯ではなく、それを留めていた枠を指した。古い木が曲がり、細い線を引っ張っている。
「枠が動くたびに引っ張られる。これだけ薄いと、そこで切れる。継ぐだけでは、同じことになるよ」
枠へ伸ばしかけた手を引っ込めた。金を節約するために、細く、薄くしてきたのか。輪なら指に合うまで延ばせばよかったが、これは切れれば結界が途切れる。今朝のあの生き物も、その時に入ったんだ。三年前、初めて見た時には、怖くてナデルの後ろへ下がったっけ。
あの時も、すぐには全部直せなかった。
「金があれば、直せる?」
セラがこちらを見た。
「金だけじゃ直らないよ」
「分かってる。足りない物の、一つ?」
「そう。木と銅と、人の手は町で揃えられる。石の分も出る。金を買い足す分が、どうしても足りない」
工房へ続く道を見た。
あそこの棚には、金をしまった箱がある。
*
リリアを連れて工房へ戻り、セラに棚の箱を指してみせた。
「二人の分、見たい」
セラが箱を下ろし、鍵を開けて小袋を出した。台へ皿を置き、リリアに袋の口を開いてもらう。
黄色い粒が、布から落ちた。
細かな金が皿の中央へ積もり、厚みのある粒がその斜面を転がった。こんなにあったのか。袋へ足す時には一部しか見えなかったが、全部出すと、指輪をいくつも作れそうな量だった。
リリアは袋を振り、小さな粒を最後まで落とした。
「何に使いたいの?」
「結界。あの柱と、ほかにも悪い所があるんだろ」
言ってから、皿の縁を握っていた手を離した。
「俺だけで決めちゃ駄目だから。リリアは、どうしたい?」
リリアはすぐには答えなかった。金を見て、それから工房の開いた戸へ顔を向ける。川の方から、荷を運ぶ声がした。
「直るなら、私も使いたい」
セラを見た。
セラは棚から小さな天秤を出し、まず袋の金を全部量った。それから修繕用の紙と見比べ、要る分を取り分けて量り直す。しばらく、分銅の触れ合う音だけがした。
元の皿にはまだ、金が残っていた。セラが分銅を箱へ戻し始める。もう足りたのだろうか。
量り終えたセラは、金を皿へ戻し、二つの山に分けた。
「十分ある。川側の三か所を、必要な厚さで作り直せる。古い金も回収して使うから、二人からもらうのは、この分だけでいい」
使うと言われた方へ目を移した。セラによると、全部の四分の一にもならないそうだ。残る方の金を見てから、リリアと顔を見合わせた。ぎりぎり足りるかどうか、という話ではなかった。
「町全部じゃないの?」
「全部を新しくする必要はないよ。傷んだこの三か所を、枠ごと直す。金を薄くして間に合わせるのは、もうやめられる」
リリアが皿の縁へ指を添えた。
「輪は?」
セラが聞いた。
「それは入れてない。これは、この三年で採った分」
「ならいい」
リリアが少し笑った。俺も彼女の袋へ目をやる。あの中に、いつも輪を包む布が入っている。
あれを返してもらうつもりはなかった。
話を聞いたナデルは、その晩、俺を呼び止めた。
「ここで食べた分や、服の分を払うつもりなら、要らないよ」
首を振った。
そういう気持ちが、まったくなかったわけじゃない。でも、それだけなら俺の持ち分から出せばいい。リリアと一緒に採った金を、何に使ってほしいのか。今なら言える。
「直してほしい。俺が行ったあとも、みんなあそこを使うんだろ」
ナデルはしばらく俺を見ていた。
「そうだね」
それから、机の上の紙を寄せてくれた。
セラから預かった、工房へ出す手紙の控えだった。金の話をする前から書いてくれていた、俺の行き先の話だ。
座り直し、まだ読めない文字を一つ尋ねた。
*
修繕が始まるまでに、さらに何日か掛かった。
その間に、ナデルとリリアの父親も交えて金を使う量を確かめた。父親はリリアにも、残す分を指して尋ねた。彼女が頷くのを待って、ようやくセラが使う分を別の袋へ移した。
箱を見に来たことのある老人も、今度は修繕の紙と金を見比べていた。セラに量と材質を確かめ、ようやく、これなら手配できると言った。前のように、たまったら見せてくれ、で終わらなかった。
町から来た木工の職人が古い枠を外し、別の人が柱の足元を直した。セラはガランと紙を見ながら、どこから手をつけるか相談している。二人の話をそばで聞いた。川側を開けてしまう間は、板と見張りで生き物が荷場へ入るのを防ぐそうだ。
俺は、工房で手伝う日が多かった。
工房の炉に火が入る。金を扱うのはセラだ。俺が任されたのは、冷えた部品の端を整えることと、仕上がった物を柔らかな布へ置くことだった。
一つ置くたび、向きを直す。
輪よりも小さな部品なのに、どちらを上にするかまで決まっている。セラが留め具を合わせると、見えていた金色がほとんど隠れた。
「これだけしか見えないんだ」
「見せるための物じゃないから」
セラが布へ戻した部品を覗いた。こんな所へ入るのか。三年間、顔を近づけて探していたものが、今度は蓋の下へ隠れる。
少し惜しい。それでも、なくなってしまうわけではなかった。
使い古した帯も、作業中に出た削り屑も、セラは別の器へ集めた。それを量って、町へ戻す分と俺たちへ返す分を教えてくれる。細かな屑も捨てずに残してくれるので、安心して見ていられた。
最後の柱を閉じる日、リリアは家の手伝いを早めに終えて来た。
セラが柱の器具へ石を入れ、枠へ手を置いた。隣の柱まで、薄緑の面がつながる。途中で揺れていた端が、今日は同じ場所に留まっている。
ガランが小石を低く投げた。薄緑の面に触れた石が、手前へ落ちる。
もう一度投げるのかと見ていたが、ガランは石を拾い、セラへ頷いただけだった。反対側の柱でも、作業の男が同じように小石を投げていた。
終わったらしい。
光は思っていたより地味だった。空まで伸びるわけじゃない。見回しても、荷場の人たちはまだ荷を運んだり、板を片付けたりしていた。
けれど、リリアは塞いでいた板が片付くのを見て、近くの女へ声をかけた。
「明日から、こっちへ下ろせるって」
女が倉庫への短い道を見た。
「助かる。あの坂、もう上りたくなかった」
それを聞いて、ようやく肩の力が抜けた。あの坂を上らずに済むのか。光の色を見ているより、何がよくなったのか分かった気がした。
前に盆を覗いて笑った男が、柱へ顔を寄せた。セラに何か聞き、こちらを振り返る。
「本当に金だったのか」
頷いた。
「川の、あんな砂から?」
「最後まで洗うと、残ることがある」
男は手のひらを広げ、それから川へ顔を向けた。でも、仕事をやめて採ると言い出すわけではなかった。
「今度、見せてくれ」
「いいよ」と答えた。
言った通りだっただろう、と付け足したかった。だが、リリアが隣へ来たので、先に盆をどこへ置いたか聞いてしまった。
今日の仕事は終わった。
今日は砂金を採りに行けなかったし、箱の金も減った。でも、夕方にはリリアと一緒に寺院へ帰れた。日があるうちに、二人であの荷場を離れられた。
第8章 — 出ていく朝
返事は、セラの所へ届いた。
王都の工房で、手伝いをしながら初歩から教わる。寝場所は近くの寺院に頼める。ナデルに読んでもらった返事は、そういう内容だった。セラからも、向こうの寝場所と教わる相手を確かめてから帰るので、道中を一緒に行こうと言われた。
工房が普段扱うのは、鉄の道具や銅の部品だという。術具の注文もあるが、高価な金を使う仕事は多くない。まずは鉄を打ち、部品を形どおりに作れるようになること。すぐに難しい図を教わるのではなく、その手前から始めるらしかった。
ナデルの机へ身を寄せ、読んでもらった紙をもう一度見た。
「行ってもいいってこと?」
「向こうは、そう言ってくれてる」
ナデルは紙を畳まず、俺へ返した。
「直人は?」
行きたいと頼んだのは俺だ。なのに、いざ返事が来ると、窓の向こうの川が気になった。リリアはまだ家の手伝いをしているはずだ。夕飯までには会えるだろう。工房の棚には、いつもの箱がある。
ここで暮らせなくなったわけではない。
それでも、図の線がどこへつながるかを、俺の力で考えられるようになりたかった。セラが分からない所を、さらに誰かへ聞きに行く。その場所を見てみたい。
「行く」
言ってから、紙の端を握り直した。
「……行きたい」
ナデルは頷いた。今度は、出発までに用意する物を教えてくれた。
*
リリアへ話したのは、次に一緒に川へ行った日だった。
行けることになった、と言うと、リリアは盆を岩の上へ置いた。驚いた顔はしなかった。もう誰かから聞いていたのかもしれない。
「いつ出るの?」
「六日後。セラと、王都へ戻る商隊に乗せてもらう」
「そう」
リリアは袖をまくり直した。いつもと同じ手つきだ。また、言わずに済ませそうになる。今日はちゃんと聞こうと思っていたのに。
「リリアは、嫌だった?」
彼女がこちらを向いた。
「何が?」
「王都へ行くって言った時、あんまり喋らなかったから」
リリアは目を伏せ、濡れた指をズボンで拭いた。
返事を待った。食卓で話に入れなかった頃より、落ち着かない。
「寂しいとは思ったよ」
それは、分かる言葉だった。
「次に川へ行く時もいると思ってたから。王都って、すぐには帰ってこられないんでしょ」
「たぶん」
「セラは毎年、ずいぶん長くいないよ」
リリアが少し笑った。俺も、ようやく盆へ目を戻せた。
「嫌だから行かないで、とは思ってない。セラもいるし」
「うん」
「今度は、一人でも喋れるもんね」
「うん。向こうの話についていけるかは、分からないけど」
「帰ってきたら、私にも教えて。何を覚えたか」
「うん。見せられる物も、作れたら持ってくる」
リリアが盆を膝へ戻した。
岩の脇の石をどけ、スコップで下の砂を掘り出した。今日の分を二人の袋へ足すのか、俺が持っていく分にするのかは、まだ決めていなかった。
金が出てからでいい。
そこまで先に考えていて何も出なかったら、少し恥ずかしい。
その日は何皿か続けて出た。最後の一皿を仕上げると、細かな黄色の間に、丸みのあるものが交じっていた。
リリアが顔を寄せた。頬へ落ちてきた髪を、耳へ掛ける。初めて一緒に採った日にもそうしていたな。あれから、もう何度見ただろう。
「これ、厚いね」
「うん。今日のは、悪くない」
容器のふたを開け、盆に残った金を移した。今日の分をまとめて底へ寄せる。しまう前にもう一度見たくて、すぐには閉めなかった。
ふたの欠けた所を、指でなぞる。
「これ、置いていく。リリアが使って」
「持っていかないの?」
「向こうでは、別のを探す」
そう言ったら、本当に別の川へ行くのだという気がした。
リリアは容器を受け取った。
「じゃあ、次に来た時はここから足そう」
頷いた。何か言うより先に、頷いてしまった。
*
荷物は、何度詰め直しても少なかった。
着替え。布。直してもらった靴。ナデルの手紙と、読めるところだけ何度も読み直した、王都からの返事。
工房の箱に残っていた金は、リリアと二人で分けた。
俺の分のうち旅と当面の暮らしに必要な分だけを、セラが工房組合へ売って貨幣に換えてくれた。旅費はセラが預かり、俺はその中から少しだけ銅貨を受け取った。金のまま残す分も、封をした小箱へ戻してセラに持ってもらう。
リリアの分は、父親にも確かめてもらい、このまま工房へ預けることになった。小袋を箱へ戻し、セラに鍵をかけてもらっている。指輪は今まで通り、リリアが持っている。
もう少し、俺が持って歩ける分があったら、何かできるかもしれない。封をした小箱を見ていると、セラが荷物の奥へしまった。
「まず、向こうで一日を過ごしておいで。道具は、それから選べばいい」
その通りだな。まだ何を作りたいかも、細かくは決まっていない。それでも、何も持たずに流されてきた時とは違う。
寝床へ戻り、置いていく物を小さな箱へ入れた。
川岸で目を覚ました時に着ていた服もあった。首元を紐で結ぶ上着と、布紐のズボン。袖へ腕を当てると、もう短い。あの時には、この小さな服が俺に合っていたんだ。
どこから来た服なのかは、今も分からない。濡れたこれを村の人が干し、布へ包んでくれた。リリアがその包みを舟に載せてくれた。
手に取っているうちに、携帯や車の鍵を探した時の指の感触を思い出した。入っているはずの所を、空と分かってからも何度も探った。
今なら、助けてくれる人の名前を言える。
けれど、日本に何を残してきたかを全部話したことは、まだなかった。
澪の名前を口に出しかけて、服を畳む手を止めた。
元の家へ帰りたいと思う夜は、今もある。鍵を開け、電気をつけて、いつもの椅子へ座る。何も変わっていない部屋を、見てみたい。
でも、そこに澪はいない。それはこの川へ流される前から、変わらなかった。
もし帰る道が見つかったら、リリアともナデルとも、もう会えなくなるんだろうか。
服を膝に置いた。戻りたい気持ちが消えたわけじゃない。それでも、今ここで道を示されて、すぐに行くと言えるかは分からなかった。行ったり来たりできるならいいのに、と思う。そんな都合のいいことができるかどうかも、知らない。
王都へ行けば元の世界へ戻れる、という話は誰からも聞いていない。今度の旅は、俺が学びたくて頼んだものだ。魔術を知れば、この身体や、ここへ来た理由についても、いつか何か分かるかもしれない。その期待まで、捨てるつもりはなかった。
畳んだ服を箱へ戻した。ナデルに頼むと、寝床の奥へ置いておけばいいと言ってくれた。しまった場所を知っていれば、今度はなくしたことにはならない。
*
出発の朝は、呼ばれる前に起きた。
食卓の椀を並べていると、ナデルが顔を出した。
「今日はやらなくていいのに」
「もう出しちゃった」
ナデルは俺が並べた椀を見て、何も言わずに粥をよそい始めた。
席へ座る。今並べた椀で食べる、いつもの朝だった。隣の子が食べ終わるのを待っていると、戸口からリリアに呼ばれた。
どこへ連れていかれるのか分からないわけじゃない。今日は俺も、行き先を知っている。
包みを背負い、門まで歩いた。足元の石の出っ張りも、雨の日に水がたまる所も、今は避ける前から分かる。
セラは商隊の荷車のそばにいた。道具の箱を積み、馬のそばにいた男へ声をかける。俺の座る場所には、折った敷物が置かれていた。
ガランが、持っていく紙をセラから受け取った。
「向こうで困ったら、この人に渡す。名前は読めるか」
紙の一行をゆっくり読んだ。セラの師匠の名前だ。まだ会ったことはない。でも、これなら向こうで、誰に会いたいのか俺の口で言える。
ガランが紙を返した。
最初にこの門へ来た時も、同じ人が立っていた。あの時は、剣を下げた男としか分からなかった。
「ありがとう」
そう言うと、ガランは首を振った。
「セラの言うことを聞いて。荷車から落ちるなよ」
門の外へ出る前に、リリアが俺の肩ひもを引いた。振り返ると、ねじれていた所を直してくれる。礼を言う前に、彼女の手はもう離れた。
リリアの右の中指に、輪があった。
手伝いの時は外しているのに、今日ははめて来てくれたんだ。
「手紙、書く」
輪から目を上げ、リリアの顔を見た。
「読めるように書いてね」
「頑張る」
リリアが笑った。俺は、ほかにも何か言っておかなければと考えて、結局、もう一度ありがとうと言った。
今度は、その続きも言えた。
「一緒に採れて、楽しかった」
「私も」
リリアの手が、包みを背負った俺の背中に軽く触れた。肩ひもを外し、荷車に先に乗ったセラへ包みを渡す。それから俺も、荷台によじ登った。
川側の結界は、門から少しだけ見えた。朝の光の中では、そこに面があるのか分かりにくい。荷を運ぶ人たちは、直した柱の横をいつもどおり通っていた。
俺が出ていった後も、あの荷場には人が来る。
それを見てから、荷車の縁へ手を置いた。
動き出すと、思っていたより身体が揺れた。敷物に座り直し、門の方へ顔を向ける。リリアが手を上げた。その指で、輪が朝日を受けてきらりと光った。俺も、腕を高く上げ返した。
ノルカの門が小さくなる。
すぐに前を向くことはできなかった。何度か曲がって、もう人の顔が分からなくなってから、ようやく膝の上へ手を戻した。
セラが水袋を差し出した。
受け取って一口飲んだ。返す前に、ずっと聞こうと思っていたことを思い出す。
「王都にも、川はある?」
「あるよ」
「そっか。よかった」
水袋の口を閉め、セラへ返した。
もう一度だけ門の方を見てから、道の先へ顔を向けた。